「アビーとシャーファミリーの演奏会」(c) Seiji Fujishiro Museum2024
カミソリを使って緻密に切り抜かれた木々や風景、そして音楽を奏でる動物やこびとたち。そんな作品を手がけるのは影絵界のパイオニア、藤城清治さん。101歳の今も新作に取り組む日々。その創作意欲はどこから生まれるのでしょうか(構成:篠藤ゆり 撮影:小林ばく)

前編よりつづく

戦争中も絵を描き続けて

絵は子どものころから描いていました。幼稚園の時、「絵ばっかり描いてないで、もっと口を使いなさい」と親に言われた記憶があります。

中学から慶應義塾に通うようになって、大学予科(高校)では美術部「パレットクラブ」と、児童文化研究会に入りました。パレットクラブは大学と共同の部活で、メンバーは50人くらいいたかなぁ。

18歳の時、洋画家の猪熊弦一郎さんに師事するようになって。でも、遊びに行くような感覚で、あまり教わった記憶はないんだけど。

僕は絵だけではなく、人形作りにも興味があり、自作の人形劇とかもやるようになったんです。すると猪熊さんがすごく喜び、「うちでやれよ」と言ってくれるので、アトリエで人形劇を披露したりしました。人形劇といっても子ども向けのものというより、パリでやっているような洒落たものです。

当時は戦争中だったけれど、マティスやピカソなどのモダニズムがよく紹介されていて、そういう画家が好きになったんでしょうね。でも、大学にも軍人が監督に来るようになって。食堂に、僕が描いたマティス風の首の長い女の子とかの絵がたくさん展示されているのを見て、「軟弱だ」と没収されてしまいました。

大学に進むと学徒動員に駆り出され、農村で泊まったりするように。そこでも村の子どもの様子や風景を描いて、子どもたちにその絵をあげたり、人形劇を見せたりしていました。

その後、海軍予備学生として航空隊に入隊したら、部下はみんな少年兵。敗戦近く、アメリカ兵がいつ上陸するかという時に、少年たちの心を慰めるために、訓練の合間に少年兵たちと人形劇をやっていました。

戦争中だからこそ、みんなに少しでも喜んでもらうために絵を描きたかったし、人形劇も続けたかったんですね。