Tさんのハサミが母を満面の笑顔にした
私が60歳になる頃に80代後半の母の認知症が悪化した。私が母の髪を切らなくてはならなくなったのがその頃だった。
私は予約時間より早めに美容室に行き、Tさんとお兄さんの髪の切り方を真剣に観察した。仕事の邪魔をしてはいけないから、こっそりプロの技を盗もうとしていたのである。
自分がカットをされている時も、私は週刊誌を読まず、大相撲やアリスの話もしないで、鏡を見つめていた。私の異変にTさんは、「どうかしましたか?」と聞いた。
私は素直に、「私以上にひどいクセ毛の母の髪を切らなくてはならないので、恐れ多くもプロの技を盗もうとしていたのです」と白状をした。Tさんは、「しろぼしさんなら、うまくできますよ」と励ましてくれた。
次に美容室に行くと、Tさんが「お母さんの髪はうまく切れましたか?」と聞いた。
「短くしただけ。見栄えのする髪型は無理」と、私は答えた。
するとTさんは「僕は長く美容師をしているので、ハサミをいろいろ持っています。以前に使っていたものをプレゼントしますので、これでお母さんの髪を切ってあげてください」と話し、綺麗なハサミを差し出した。
美容師のハサミは高価だと知っていたので、私は「もらえません。そんなの悪いです」と遠慮した。するとTさんは、「僕の母は早くに亡くなり、僕は母の髪を切ることができませんでした。だから、しろぼしさんはお母さんの髪を切ってあげてください」と言った。
私は無料でそのハサミをいただいた。
家に帰り、プロのハサミを使い、見て覚えた切り方をした。母は鏡の中の髪型を見て、「いいわね。ありがとう」と、満面の笑顔になった。
その後、母は介護施設に入居し、最後は病院に入院して92歳で亡くなった。
