竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

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「先生、駄目っ」

 不意に腕を掴まれる。細い指が、食い込んできた。

「駄目よ、先生。一人で動いては駄目。何が起こるか、わからない。危ないことをしないで」

 血の気のない顔の中で、黒い眸だけが熱を帯びてぎらつく。

「お小夜さん……」

「先生に何かあったら、あたし、どうすればいいの。お願いです。誰かを頼って。一人で動かないで。あたしは……あたしは、ここから出られないけれど……惣名主さまなら、何とかしてくれるかもしれない。先生、頼ってみて、お願い」

「御免だね」

 お小夜の手をそっと外す。

「吉原惣名主を頼って、借りを作る。その方がよほど剣呑さ。喉元に刃を当てられているのと、変わりゃしないよ」

「……先生」

 おゑんは片膝を立てると、お小夜の顎を軽く摘まんだ。

「お小夜さん、あんまり、あたしを舐めないがいいよ」

「え?」

「あたしはね、おまえさんが思っているほど弱くはないんだよ。他人(ひと)さまに頼らなくちゃ我が身を守れぬほど、弱くはないのさ」

「そんな、あたし……」

「頼りはしない。利用はさせてもらうかもしれないけどね」

 指先ですっと、お小夜の頬を撫でる。滑らかで冷えた肌だった。

「あたしを信じな。一分でも疑うんじゃないよ」

 お小夜が顎を引いた。口元に微かな笑みが浮かぶ。

「そうね、そうですね。あたしが惚れた相手だもの。そんなに柔ではありませんよね」

 指をつき、優雅な仕草で頭(こうべ)を垂れる。

「大層な失礼をいたしました。お許しを」

 おゑんも笑み、立ち上がる。

「それでは、また。近いうちに参りますよ、花魁」

「お待ちしておりんす」

 座敷を出る。入れ替わりのように、髪結が入っていった。

 吉原が動き出す。幻の花弁がゆっくりと開いていく。

 段梯子を下りる。帳場に番頭の姿はなかった。そのまま草履を履き、総籬の前を行き過ぎる。女たちはまだ、座っていない。老女が一人、畳を拭いていた。

「先生、先生」

 通りに出たところで、つるじが追いかけてきた。小さな身体が弾むような走り方だ。

「どうしたんだい。何か忘れ物でもしたかねえ」

 つるじはおゑんの前に回り、見上げてくる。

「ねえ、先生。あたし、何か手伝える?」

「は? おまえ、あたしの助手(すけて)をするつもりなのかい」

「うん。そのつもり。あたし、先生が思っているより役に立つよ、きっと」

 確かに、実の歳より大人びて、聡明で、気働きのできる禿は、何事においても人並み以上の仕事をするだろう。

「それ、お小夜さんに言われたのかい」

「ううん。あたしが自分で思ったの。先生の助手をやってみたいなって」

「そうかい、ありがとうよ。けどね、おまえは美濃屋の禿だ。あたしが勝手に使うわけにはいかないさ。おまえだって、ご主人にお叱りを受けるよ」

 つるじの眉が下がった。かわいそうなほど気落ちした顔になる。

「そうか……やっぱり、そうだよねえ」

 つるじがどういう経緯で吉原にいるのか。おゑんは知らない。知らなくていいことだ。ただ、この少女がいずれ、江戸随一の色里の花になることは定められている。そのいずれは、そう遠くない未来にやってくる。

 だから、つるじは諦めることを知っている。望みを断つことを心得ている。諦めても、望みを断とうとも死にはしない。生き延びるコツをしっかりと掴んでいる。お小夜の許で、学んできた逞しさだ。

「ねえ、つるじ。それなら、おまえの耳を貸しておくれな」

「耳を?」

「そう。花魁の用で町に出るだろう。そのとき、誰がどんな話をしていたか、ちょいと耳をそばだてておくれ。でも、深追いはするんじゃないよ、聞き直したり、聞き出そうとしたり、それはご法度だからね。ただ、知らぬ振りをして、聞いているだけ。わかったね」

「うん、わかった。あたし、きっとそういうの得意だよ」

「そうかい。頼もしいじゃないか」

「ふふ、あのね、先生。先生だけに教えてあげる。花魁にも内緒のこと」

 屈みこんだおゑんの耳元に、つるじは囁いた。

「あたしね、吉原のお話を書くの」

「は? どういう意味だい。草紙ってことかい」

「うん。あたし、ご本が大好きなの。読むのも好きだけど、書いてみたい。吉原のお話を書いてみたいんだ。花魁のこととか、他のお姐(ねえ)さんたちのこととか、番頭さんのこととか、お客さんのこととか……みんな、書いてみたいの。だから、いつか書くんだ」

 それだけを告げると、つるじは踵(きびす)を返し美濃屋の中に消えていった。

 おやまあ、何て子だろう。

 つるじの息がかかった耳元にそっと手をやる。声の震えがまだ残っているようだ。

 それじゃ、おまえの本を読める日をじっくり待つことにしようかねえ。また一つ、楽しみが増えたじゃないか。ありがとうよ。

 もう一度、耳に手をやり、ついでにおくれ毛をかき上げる。

 さて、あたしはあたしなりに、思案を巡らせなきゃならない。

 風が吹いて、花の香りを運んでくる。この時季、仲の町の通りの真ん中に桜の樹と山吹が植えられるのだ。桜が満開になれば、雪洞(ぼんぼり)が幾つも点され、桜を下から照らしだす。日の光の中で見る光景とはまるで異質の吉原の夜桜が妖しく、美しく、闇に浮かび上がる。

 人の力によって花の美を極めようとする試みだ。

 それに感嘆するのか、気圧(けお)されるのか、愚かさを感じ取るのかは人それぞれだろう。吉原はどこまでも美しいものを極め、食い尽くそうとする。それだけだ。

「先生」

 風に顔を向けたとき、呼ばれた。落ち着いた、低い声だ。

 ちっ。舌打ちしそうになる。吉原で一番会いたくない者の声だったからだ。

 寸の間で気息を整え、おゑんは急ぐでもなく焦(じ)らすでもなく、身を回した。

「おやまあ、これは惣名主じゃござんせんか」

「ええ。ご無沙汰しております」

 吉原惣名主、川口屋平左衛門が頭を下げる。

 白髪の小柄な老人だ。見ようによっては、好々爺(こうこうや)の隠居のようにも思える。とんでもない思い違いではあるが。おゑんはこの老人ほど、見場と正体が懸け離れている男を知らない。女は一人、二人、知っている。

「先生、お急ぎですかな。老人の相手をしていただく暇があれば嬉しいのですが」

「惣名主のお相手を? ごめんなさいよ。それは、あたしには些か荷が重うござんすね」

「何を仰います。先生ほど楽しいお相手はおりませんよ。あちらの茶屋で一服、お付き合いください。ぜひに、お願いいたしますよ」

「一服がお茶ならよござんすがねえ」

 とんでもない毒を飲まされかねない。できるなら、誘いを断って立ち去りたいけれど、惣名主を振り切って大門を出ることは叶うまい。

「とびきり美味しいお茶を用意いたしますよ。さっ、先生、こちらへ」

 平左衛門が歩き出す。

 おゑんはため息を一つ吐き出し、空を見上げた。

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