「前にならえ」できる?
父はしっかりと目を私の目に向けてくれた。
「見える?」
「あぁ、俺は目は悪くないからよく見える。もう少し離れてくれ」
年寄り扱いされるのが嫌いな父らしい返事を聞いてほっとしたが、四肢にマヒが出ていないかをチェックしたほうがいいだろう。
「寝たままでいいから、『前にならえ』みたいに腕を上げられる?」
父は無言でその動作をした。次は足を持ち上げてもらったり、手の指を動かしてもらったりしたが、問題がなさそうに見受けられた。
「私から見たら、特に悪いところはないように見えるけど、看護師さんに診てもらったほうがいいね」
父は不機嫌な声を出した。
「俺はなんでもない。そんなことでいちいち看護師さんを呼ばないでくれ」
私は父の言うことは聞かずに、老人ホームの一階の事務所にいる介護士さんや看護師さんに様子を知らせに行った。すぐに父の居室に来てくれた看護師さんが血圧や熱、浮腫のチェックをしてくれたが、特に異常はなかった。
念のために夕食は私が食堂から運び、居室で食べてもらって様子を見ることにした。座るとまだ少し体が傾いている。デイサービスの報告書には、昼食はほとんど食べたと記載されていたが、夕食のおかずには箸が進まないようだった。無理に食べさせなくてもいいのではないかと考えて、父に声をかけた。
「今日は疲れているようだからご飯はやめて、冷蔵庫にあるプリンを食べてみる?」
「そうだな。温かいお茶をいれてほしいな」
プリンを食べながら懐メロの歌謡番組を見ていた父が、画面に映った美空ひばりを見て言った。
「確か美空ひばりは52歳で亡くなったんだよな? スマホで確かめてくれ」
私は父にスマホの画面を見せて言った。
「しっかりしているね! 安心したから私は帰るよ」
看護師さんに父の様子を伝えて外に出た。
風邪で熱が出たとか、ひどい下痢をしたとかで病院に連れて行ったことは何度もあるが、今日のような病気とは言えないような変化に対応したことはなかった。
認知症になる前も97歳になった今も父は、無駄な延命治療はしないと言っている。だからといって家族は「病気未満」の衰えに気付いた時、黙って見ているしか術がないのだろうか。父の老衰と向き合う覚悟をしなければならないと思うできごとだった。
(づづく)
【漫画版オーマイ・ダッド!父がだんだん壊れていく】第一話はこちら
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95歳・男やもめの頑固な父を67歳の一人娘が介護する――
笑えて泣けて、ちょっと切ない…
肩の力が抜ける、失敗だらけだけれど温かい、父と娘の老々介護の話
もしや認知症? プライドが高い父
とうとう父は事故を起こした
父、熱中症で動けなくなる
恐れていた郵便
親たちを介護し、49歳で母は逝った
歩ける父は入院を拒否された
老いは必ずやってくる。
親への失望、ジレンマ、迷い、自責の念――
選択の連続、終わりもわからず、つらく切ない日々でも、日常の小さな喜びを繋ぎ合わせて悔いのないゴールを迎えるための処方箋






