豊臣兄弟の“いとこ”青木一矩
彼は羽柴秀長に仕え、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いに従軍しました。また天正13年(1585年)4月の紀州征伐にも参加。秀長のもとで勲功を挙げました。
同年5月の四国遠征後には知行1000石から一気に1万石に加増され、紀伊国入山城主(和歌山県日高郡みなべ町)となりました。
天正15年(1587年)には越前国大野郡に転じます。このころから豊臣秀吉に直仕したようですが、秀長のもとを離れた理由は分かりません。
大野領は8万石と伝わります。天正18年(1590年)、兵1000人を率いて小田原征伐に従軍。文禄元年(1592年)の文禄の役においては肥前名護屋城に在陣。同年、山城国淀に転封となった木村重茲の旧領である越前府中城10万石に移りました。
なお、彼の子・俊矩の娘、つまりは彼の孫娘が木村重茲の妻で木村重成の母、豊臣秀吉の乳母である宮内卿局であるというのですが、年格好があいません。俊規が一矩その人であれば辻褄が合うのですが。
宮内卿局の兄弟、久規は大坂の陣で木村重成の配下として戦い、討ち死にを遂げています。青木氏と木村氏の関係が深かったことは間違いなさそうなので、一矩、俊矩の親子関係は後考を期すことにします。

