越前北ノ庄城主に
一矩は、慶長2年(1597年)7月21日に従五位下侍従に叙任されて豊臣姓を賜りました。これにより、羽柴越府侍従や羽柴府中侍従を称します。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、遺物として太郎坊兼光の刀を賜りました。葬儀では福島正則と共に、豊臣秀頼の名代を務めています。
五大老による合議が始まると、慶長4年(1599年)、秀吉遺命として、2月5日付けで小早川秀秋の越前北ノ庄への転封(筑前名島城)が取り消されました。代わって、府中の一矩が北ノ庄21万石(20万石ともする)への加増・転封が命じられ、越前北ノ庄城主となりました。
以後、羽柴北庄侍従を称する。ただし北ノ庄領には豊臣家の蔵入地(直轄地)が設定されていたので、北ノ庄の石高は10万石ほどともいわれます。
このあたり、一矩が藩主であった時期が短いので、よく分からないのです。
