「正論」が私を一番深く傷つける

高校を中退して美容師の道を選んだときも、若気の至りでバイクの無免許運転で捕まり、警察に呼び出されたときも、母は私を見捨てなかった。
結婚し、子どもを産むときも、彼女は常に私をサポートしてくれた。

今は私の子どもをこれ以上ないほど可愛がり、盆と正月には顔を見せあい、他愛もない会話を交わす。かつての「むち」の痛みなど最初からなかったかのような、平穏な「普通の老後」がそこにはある。

自分も母となった今はなおさら、母はちゃんと私を愛してくれていることも、彼女なりに精一杯、過去を埋め合わせるように私に尽くしてくれていることもわかる。

けれど、私の母への思いは、あの中学生になる前の、ガスホースの唸る音のする部屋に置き去りにされたままでいる。

どんなに「今の母」が優しくても、どんなに「普通の時間」が積み重なっても、あの数年間に刻まれた「神様が見ている」という恐怖と、叩かれた肌の熱い感覚が、私の愛の回路を塞いでしまう。

「もう終わったことじゃない。ちゃんと愛されているし、今はいいおばあちゃんなんだから」

そんな世間の、そして自分自身の中にある「正論」が、私を一番深く傷つける。

愛されていると感じるからこそ、愛し返せない自分が情けない。

台所の匂い、おふくろの味、母への感謝、みたいなエッセイが私にはかけない。家族の団欒のシーンも思い出せない。いつも父の借金と、エホバの教義という緊張感の中で、孤独に読書をしていた。