母を愛せない私は人間として欠陥がある?
母の日に、SNSやメディアが総出で「お母さんありがとう」という空気を醸成するあの時期。若い女性が母親と仲良くショッピングや旅行をしている様子を見るたび、疎外感を感じてきた。
ショッピングモールで楽しそうに会話をしているあの親子は、一体どんな会話をしているんだろうか? 私は今でも母と会話するのにとても気を使ってしまう。どこかに地雷が埋まっていないか、機嫌を損ねないかと、まるで薄氷を踏むような細心の注意を払ってしまう。
エスカレーターで私の数段前を行く、仲の良さそうな親子。母親が娘の顔をじっと覗き込んでいる。
「あなた、今日のメイク濃すぎない?」
「そう? いつもと変わらんし。お母さんこそ、リップの色浮いてるよ」
「え、うそ、変?」
「冗談だって。似合ってるよ。……あー、お腹すいた。お昼何食べる?」
神の視線も介在しない、あまりにも軽やかでどうでもよい幸福な会話のラリー。それは私にとっては一度も習ったことのない会話だ。羨ましくて、やってみたくて、こっそりその発音を真似してみたくなる。けれど自分には一生使うことが許されない呪いのようにも感じる。
母を真っ直ぐに愛せない自分は、社会的な正解からはみ出した異物で、人間としてどこか欠陥があるように思えてならない。
正しく親に愛されて、正しく愛して、正しく感謝している彼らをとても羨ましく思う。猛烈な嫉妬と「自分はなぜこうではないのか」という罪悪感が同時に溢れ出す。
けれど、これだけ絶望し、これほどまでに嫉妬して、吐き気を催すほど自分を責めてしまうのは、私がまだ母を正しく愛することを諦めていないからなのだと思う。
「お母さん」なんて言葉、気恥ずかしくて口が裂けても言えない私は、今、彼女のことを「おかん」と呼んでいる。
本当は、私も彼らのようにただの娘として母の隣に座りたいし、いつかは何の教義も、何の罪の意識も介さず、「お母さん」と、その四文字をただ真っ直ぐに呼んでみたい。
