伏目がちに来る
別の観察場所では濃すぎる接触があった。
1998年10月5日、私は倒木に背をもたれかけて本を読みながら、100メートル先の谷底を見下ろしてクマが通るのを待っていた。こちらの斜面には、大昔にワサビづくりの人たちが歩いた山道がいまはケモノ道になって水平な筋になっている。
目の前にそびえるミズナラの巨木は太い脇枝と主幹の樹皮だけが生きている。気まぐれのようにドングリを落とすことがあって空洞になった太枝に当たると、こーんとギターの響鳴胴を打ったような軽快な音を響かせる。
音楽が眠気を誘い、目を細めていると40センチメートルもあるシーボルトミミズがヘビのような勢いで脇をくねってきた。私が驚いて顔を上げると、歩道の端にクマがうつむきながら歩いて来る。
長いミミズがクマの到来を告げた。
5メートルの距離まで来ても、クマはこちらに気がついていない。黒い塊は、もりもりと私の視野に広がった。大声を出してクマを驚かしては攻撃を誘発しそうだった。
距離と時間が異常に濃くて次の動作を決めかねた。私は体を動かさず、優しく「ほいっ」と声だけをくれてやったら、クマはすとんと右回りに反転し、いま来た方向にばっさばっさと笹薮を叩きつけながら走り去った。
汗で濡れた手は河合雅雄の『少年動物誌』のページを押さえていた。
【森と墓場の虫】激しい葉音を立てて、足元からイナゴが飛び立った。