(写真提供:Photo AC)
国士舘大学大学院客員教授・八幡和郎先生は、「近代日本において、全国のどこで生まれても地元の各都道府県に名門高校があり、良質な高校教育を受けることができることは国力の源泉となってきた」と語っています。当連載では、そんな八幡先生の著書『日本の名門高校 - あの伝統校から注目の新勢力まで -』から一部を抜粋し、全国の名門高校をご紹介していきます。今回取り上げるのは「姫路西高校」です。

姫路西高校 県立/共学/兵庫県姫路市北八代

世界遺産・姫路城の裏に立地する兵庫県の旧一中

兵庫県の一中は神戸第一中学、つまり現在の神戸高校(神戸市灘区)だろうとたいていの人は思うだろうが、実は姫路西高校がそれである。

世界遺産になっている姫路城を今日のような形にしたのは、関ヶ原の戦いのあと入封した池田輝政だが、輝政の孫であった光政が幼少を理由に鳥取(のちに岡山)に移封されて、そのあとには本多忠政(妻は徳川秀忠の娘・千姫)がやってきた。そののちも領主の交代が激しく、最後は関東の前橋から移ってきた酒井氏だった。

江戸時代には藩校もあったが、現在の学校につながるものはない。姫路西高校は、明治11年(1878)に六郡組合立姫路中学校が設立されたのが起源である。播磨地方の6つの郡が共同で設立した。明治20年(1887)に兵庫県尋常中学校となったが、明治29年(1896)に神戸尋常中学、豊岡尋常中学が設立されたのを機に、姫路尋常中学校と改称し、その後、姫路中学校を経て昭和23年(1948)4月に姫路西高校になった。

神戸でなく姫路に一中的な学校が創られたのは、弘前、松本、彦根、大和郡山と同じで、明治中期には進学を希望する少年のほとんどは士族だったからだ。

同年6月、姫路東高校(姫路市本町。旧制姫路高等女学校)と教師と生徒を半分ずつ交換し、男女共学になった。その後、姫路西高校も学区制度による規制を受けた時代があったが、越境をある程度認めたりしたので、他の地域の名門公立高校が学区制度で軒並み壊滅したなかで、それほどのダウンはなかった。現在は播磨東部が姫路西高校の通学区になっているが、国際理学科には全県から志願者が来る。