『マダム・バタフライ』をやって頂きたい
(七)
私は、此(この)アルバートホールのデビュウを皮切りに、色々の音楽会に招かれるようになり、マダム・ミウラの名は、段々にロンドンの社交界にも知れ渡って行った。折からマンチェスターからも出演の交渉を受けて出かけて行った。契約をする時にも、一体幾ら御金を貰ったらいいのか解らず、井上大使夫人に相談すると、アデリアも一万弗(ドル)カルソーも一万弗だから貴女は五千弗位にいって見たらどうということになって、そういってやると、何分現在戦時中だから、カルソーでもアデリアでも二千五百弗位の相場故、貴女は三百弗位にして貰えまいかという話、あまりにこちらの考えているのと桁が違うので。私はおかしくなってしまったのを今でも覚えている。
此マンチェスターへ行った時に、私の宿へウラジミール・ローヂンというロシア人が訪ねて来た。
「マダム・ミウラ。私は貴女にオペラをやって頂きたいと思うのですがどうでしょうか。」
「オペラとおっしゃいますと、それはどんなのでございましょうか。」
「無論、『マダム・バタフライ』をやって頂きたいのです。」
「まあ、それはもう私に出来ましたら、是非やって見たいのですが。」
「ただしですね、一ヶ月間に稽古をつけて頂きたいのです。伊太利語で、相当難しいかもしれませんが、貴女にお蝶夫人(マダム・バタフライ)をやって頂いたら、とても素晴らしいと思うんです。」
「オペラは私の年来の希望なのですから、願ってもないことです。必ず成功して見せますわ。」
私はロンドンへ帰って来てからは、もうあのやかましいスコットランド人の女房(かみ)さんの家は敬遠して、伊太利人の宿をとっていたが、さて、一ヶ月間と日限をきられた、夜を日についでの激しい練習を開始した。
歌詞は、一日十頁ずつ暗記して、一ヶ月に三百頁をあげる予定をたてた。お蝶夫人こそは私の世に問うものなのだ。これに成功しなければ私は日本の土は再びふむまい。全く死物狂いの決心だった。
三浦は相変わらずロンドン大学へ通っていたが、私の眼中には只、世界に乗り出す希望以外に、三浦も何もなかったといっても過言ではないかも知れない。朝は六時に起きて、夜は床(ベッド)に入ってまでも、書抜きを離さなかった。食事中も、私は三浦とろくに話もしないで暗記するのに夢中だった。丁度児玉恒雄伯が同じ宿にとまっていられたが、私の勉強ぶりを見て驚嘆されたのを覚えている。
昼間はオペラハウスへ行って舞台稽古をした。私の最初のピンケルトンとしての相手役は、フランスのテナーで、ムッシュウ・ラフィットだった。
「所作は自分の思うようにやりたいと思いますからね。いろいろ日本の踊の手になんか入れて、本当に今迄誰もしなかった、私自身の独創的な『お蝶夫人』をやりたいんですから」
私はそうラフィットにもことわって、こうでもない、ああでもないと自分の動きを考えるのだった。