夫も淋しい、妻も淋しい
しかし乍ら、私が、大勢の新聞記者や、音楽の愛好家(ファン)に迎えられて、新しい大陸をふみ、ようやく世界人として、様々のレセプションや夜会などにも出席するようになって、私の持前の陽気な気質から、丁度、蝶々が一杯に羽を拡げたように、自由に勝ち誇って振舞う、私の態度が、三浦に気に入らないのは無論だった。私はすでに三浦一人の環ではなくなってしまっていた。私は、私の芸術を万人の喜びとしたいという熱望にあふれていたのだ。
夜会の折など、三浦と一緒に出席して、私ばかり人々にとりまかれて、話題の中心になっている。ふといくら探しても三浦がいない。どうしたのだろう、またあの淋しそうな顔をして一人ぼっちになっているのではあるまいかと、そっと探すとまるでバチュラー〔butler:執事のことか〕のように黙って難しい顔をして玄関に立っている。本当にあれではバチュラーと間違えられて了(しま)うのに、私も情けない気持になり、いらっしゃいいらっしゃいと人知れずそっと呼んで見るといった調子、水と油のようにそういう空気には混り合わぬ気質で、三浦も淋しかったであろうが、また私も淋しい気持がするのだった。
そして宿へ帰って来ると、人の前でああいうことをしゃべってはいかん、あの態度はよろしくないと、ことごとに自分の行動を批判の目で見られるので、つい私も言葉をあららげるということが、決して少なくはなかったのである。お互いに愛情はしっくりと解りあってい乍ら、そして、私の場合には、ことに頭の下る程な愛情で愛して貰い乍ら、気質の相違とか住む世界の相違とかは、いかんともなし難い悲しみだった。
三浦のいかにも外国の、人にも空気にも慣れぬ淋しげな顔を見る度に、自分は三浦との結婚生活にも、また妻か芸術か、その相剋するなやみに苦しまねばならないことを思うのだった。最初の結婚も愛し合ってい乍ら、その問題のために破れた。そして、三浦もまた今その悩みをなやまなければならない。けれでも自分はそれだからといって歌がすてられるであろうか、自分から歌をとり去ったら、一体何が残るのだろう。日本の女の身として、誰も未だ曾(かつ)て所有したことのない栄誉や喝采、むざむざとそういうものがすてられようか。女にとっては、そも何が幸福であるか私は知らない。が、その頃でも今でも自分を幸福でないなぞとは私は一度も思ったことはないのである。そして、自分の妻としての生活も、ますます多難であることを痛感せずにはいられないのであった。
丁度アメリカへついた時は、アウトシーズンで私達はすぐシカゴのオペラハウスで上演の契約が成っていたが、ここでもまた。ニウヘヴンのエール大学にとどまりたいという三浦と、ニウヨークがシーズンになる迄各地を歩かねばならぬ私との離合の問題に逢着したのであった。三浦は私と離れるのが厭であり、一方には大切なビタミンCの研究は一刻をゆるがせに出来ないのであった。で、私達はまたしても深刻にその問題を考えなければならぬことに立ちいたったのである。
※読みやすさのため、表記を新字新仮名にしています
※本記事には、今日では不適切とみなされることもある語句が含まれますが、執筆当時の社会情勢や時代背景を鑑み、また著者の表現を尊重して、原文のまま掲出します
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