再放送中のNHK連続テレビ小説『エール』で、柴咲コウさんが演じるソプラノ歌手・双浦環のモデルは、「マダム・バタフライ」と言われた実在の国際的オペラ歌手・三浦環(1884ー1946)。その三浦環が『婦人公論』(昭和11〈1936〉年10月~12月号)に寄せた自叙伝をこれまでに4回配信してきましたが、現在の『エール』の放送に合わせて残り2回分を配信します。今回お送りするのは第5回。海外での名声が高まるほど、夫とは心が離れていく。深く悩みながらも、音楽への情熱を断ち切ることはできないという環の心境が綴られています

〈4〉「蝶々夫人をやって頂きたいのです」はこちら

米国ってどんな人情のところなんでしょう

三浦と私がロンドンを後にして、あの朝靄の中にニューヨークの屹立としてそそり立つ巨大な建物の影を眺めた時の感動も、なかなかに私の一生涯の間の、忘れられない一瞬だった。

どんな大きな都会が、私達を待っていてくれるのであろう。今迄は人に追われ、戦いに追われ、落人の如く私達は新しい町につくのであったが、今はそうではない。私は世界の三浦環として、新しい人達に、新しい都会に見(まみ)えるのだ。その新しい人達は、一体私をどんな風に迎えて呉(く)れるのであろう。私は、自分の感動に堪え切れなくなって、そっと傍らの三浦の手を握りしめると、三浦も同じ思いであるらしく、しっかりと私の手を握りかえしてくれるのであった。

「何だか恐ろしいような気がしますわ」

「何、大丈夫さ、もうすっかり度胸が出来た筈じゃないか」

「でも、米国ってどんな人情のところなんでしょう」

「ははは、お前にも似合わないことをいうね、しかし、環、お前には運がついているよ。大丈夫だ」

「運でしょうか」

全くそれは運というより外(ほか)ないような私の気持だった。ロンドンを発つ時、ロンドン大使の所へ御暇乞(おいとまご)いに上ると、

「やあ、しっかりやって下さい。大いにやって国威を発揚して下さるんですな。私の方からも、アッチの大使館に電報を打って置きますよ。」

「宅ではこんな電報を打つといってますよ。『コクホーだから大切にせよ』っていうんです」

冗談のようにしていわれた大使夫妻の厚い御志に、急に目頭が熱くなって来て、

「すみません。本当に有難うございます」

と涙もろい私が、もう目をうるませると、

「さあ門出に涙は禁物禁物。元気に行ってらっしゃい。」

と気軽な大使は笑われるのだった。

私はそれを思い出して、もう一度熱いものが胸につき上って来た。

「ああ、米国だ」

三浦は波止場の方に瞳をこらし乍ら(なが)叫んだ。

「あああんなに日本人が迎えに来ていて下さる。」

「そうだわ、あれは皆私のお迎えなのね。」

あれが三浦環さんだ、お蝶夫人(マダム・バタフライ)だ、私はそういう無数の声と瞳の中へ、さし出されている人々の手の中へ、大きな波に乗ったような気持で、すうっとおりていく自分を感じた。