きっと人々を感動させて見せる
一九一四年の十一月二十四日、アルバートホールに立つ日はやって来た。アデリナ・パティは有名なダイヤモンドの愛好家だったから、頭の先から足許までダイヤモンドで飾り立てるだろうという噂さだった。
だが私は、レフィティ(戦いに追われた者)だった。着物一枚ありはしない。朝は十時から南條夫人の御宅へ出かけて桃割れに結って貰うのに午後三時迄かかる始末だった。着物は井上大使夫人のを拝借して、さてこれでいつホールへ出かけてもいいとなった時、南條さんの奥さん達は私にいうのだった。
「環さん、大丈夫ですか。上ってしまっては駄目よ。心配なことはないの。」
「否(いいえ)、奥さん、私はちっとも心配なことありませんわ。私きっとうまくやってのける自信がありますもの。」
「そんならいいけれど、ああ環さんより私の方が余程心配で、いても立ってもいられないわ。だって今夜は、キング・ジョージも、クイン・メリイもいらっしゃるんでしょう。本当に環さん、日本のためにね、しっかりやってちょうだい。お願いするわ。」
不思議なことに私は少しも興奮してはいなかった。きっと人々を感動させて見せる。させずにはおかないという、火のような私の決心は、私に不思議な自信と落ちつきとを与えてくれた。私は自分の弱気な心のかげに、芸術に対してはあくまで負けず嫌いの太々しい魂が存在しているのを、その時感じたのであった。
当夜はメリイ、ジョージの両陛下を初め、宮様や大臣が、悉(ことごと)く集まり、実に盛大な音楽会だった。
コーラスは有名なウエストミンスター寺(アベイ)の千人のコーラス隊オーケストラも三百人からの大オーケストラだった。
自分の声が世界一だという、今から思えばすさまじい自信は、私をおめず臆せずそのコーラスやオーケストラを向うにまわして、「リゴレット」の中の「なつかしき御名」を歌いおおせさせたのであった。
ステージを引いて控室へかえってくると、一番先きに私を抱いて泣いてくれたのは、誰あろうアデリア・パティだった。アデリアは伊太利〔イタリア〕人で、大変な情熱家だったが其頃はすでに七十三歳の高齢だった。私もアデリアの後進を労わってくれる熱い其気持ちがものもいわずともひしひしと胸に来て、涙が後から後からとこみあげて来た。
私はアデリアが、アンコールに答えて、ホーム・スイート・ホームを歌うのをかげから聞いていたが、そんなポピュラーな歌曲であり乍ら、ああ、歌とはこんなものかと何ともいえぬ感動に胸の痒(かゆ)くなる思いで、とてもとても自分などアデリアの足許にも及ぶものではないと、初めて自分こそ世界第一とうぬぼれていた自信の鼻を折られたのだった。
其夜私がアデリアの歌を聞いたということは、私の芸術のためには此上ない救いであった。
そしてそれは私の三十歳の秋の、もっとも記念すべき夜であった。
さあこれから私はふんばってうんとやるぞと、新しく芸術に対してもり上ってくる自分の力を身内に感じずにはいられなかった。