大ヒットしたときは本当に嬉しかった

卒業後は、自動車の整備士として鈴鹿サーキットで働いていましたが、どうしても歌手になる夢をあきらめきれなかった。家を出た姉が名古屋のキャバレーで歌っていたので、僕も一緒に働かせてもらえるように頼みこんで。

1年で整備士の仕事を辞め、キャバレーに受け入れてもらったはいいものの、想像とは違って雑用ばかり。苦しいことがあると思い出すのが、赤いウインナーを食べられなかった時の悔しさでした。貧乏は嫌だ、ここで終わるわけにはいかないと踏ん張っていたのです。

歌えないまま、そのキャバレーは潰れてしまいましたが、それを機に大箱のキャバレーに移ることに。当時は夜の街に活気があって、また雑用として入れてもらえました。そこではお店を開ける前にちょっと歌わせてもらったりして。

ある日、優勝したらレコードを出せるというカラオケ大会に出場したことで、運命が転がり始めました。なんと優勝したのです。でもそれは自費制作で、ということだったらしく、さすがにそこまでうまくいかなかった(笑)。

しかし、たまたま会場にいた東芝EMIの方に、本気でやるなら東京に来なさいとスカウトされて上京。その後オーディションになかなか通らず、東芝EMIの社員として、村田英雄さんや松山恵子さんの付き人をしながらレッスンをして過ごしました。