生活を守るために一揆を
そして、領主の側も農民の生活を保障することが自らの責務であるという建前に立っていたから、生活の維持・改善を求める一揆勢の要求を無下に拒否することはできなかった。一揆勢の要求は、その全部か一部かは別として、ある程度認められることが多かった。江戸時代の人口の約8割は百姓だったから、彼らの世論を無視しては、武士による安定的な統治は不可能だった。
こうした実態からすると、一揆は現代のデモ行進に近いところがある。しかし、一揆をデモ行進と同一視するのも一面的である。幕府・大名は百姓が結束して訴えを起こすこと自体を違法としていたから、一揆は処罰を覚悟しなければ起こせなかった。
一揆参加者、とりわけ一揆の指導者(頭取)は厳罰に処せられることが多かったのである。頭取は死罪・遠島(島流し)・闕所(財産没収)などに処せられ、一般の参加者も過料などの処罰を受けた。
それでも、百姓たちは、生活を守るために一揆を起こし、領主に対して自己主張した。百姓たちは、卑屈な「もの言わぬ民」ではけっしてなく、すぐれて「もの言う民」だった。武士に対して敢然と声を上げることで、自らの暮らしを維持・発展させ、たくましく歴史を作っていったのである。
※本稿は、『年貢-せめぎ合う江戸時代の領主と百姓』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『年貢-せめぎ合う江戸時代の領主と百姓』(著:渡辺尚志/中央公論新社)
江戸時代、税の中核は年貢だった。
大名領が石高で表されるように、年貢は社会全体のありようまで規定していた。
だが、その実体はあまり知られていない。
年貢の成立から終焉までを巨細に解説する。




