十
指先の震えを感じた。
おゑんは震えごと指を握り込む。強く手のひらに押し付ける。
「先生?」
甲三郎が僅かに目を細くした。視線がおゑんを撫でる。
「その女に心当たりがあるんでやすか」
「ええ、もしかしたらという思いは、ありますね」
もしかしたらが、外れてほしい。けれど、悪い方に転がる道で、それが外れることは滅多にない。これまで生きてきた歳月で骨身に染みている。
「知り合いなんで?」
「米沢町の生薬屋伊野屋の奉公人、お定さんって女じゃないかと思ってます」
「米沢町」
平左衛門が町名をゆっくりと口にした。
「先生、その殺された女とこれから先生が語ってくれる話、二つは結び付いておるのですかな。米沢町という一点で」
「はい」
あっさり答え過ぎたせいか、平左衛門が瞬きを二度続けた。けれど、表情自体は妙に楽しげだ。双眸にはいつもの鋭さはなく、こちらを窺うような光が宿り、口元は緩んでいる。深くもないが浅くもない些か歪(いびつ)な付き合いの間、ここまで上機嫌な惣名主を見たのは初めてだ。全く覚えがない。
平左衛門が軽く頷く。
「甲三郎」
「へい」
「殺された女について探ってみろ。おまえが出張るまでもない。今すぐに、頭の切れるやつを一人、米沢町に回せ」
「へい」
甲三郎が音も立てず襖を開け、出て行く。入れ違いに、小女が茶を運んできた。まだ十一か二。頬の辺りにあどけなささえ残る少女だった。しかし、挙措は落ち着いて優雅さえ感じさせた。
「あれは、親に売られました」
小女が去ってすぐ、平左衛門が言う。空の色を語るような口調だった。
「禿にするには歳がいき過ぎており、振袖になるには習いが足りません」
つまり、河岸見世あたりの女郎になるしかないというわけか。昼六百文、夜四百文が相場で、銭見世(ぜにみせ)とも呼ばれる最下級の娼家(しょうか)の女郎だ。
「ところが、あの者、えらく算盤(そろばん)と相性がようございましてな」
「え?」
「金勘定と申しますか、商いの切り盛りに才がございました。それはちょっと驚くほどにございましたよ。それで……」
「それで?」
「この店で働かせております。いずれは、主として一店を差配できるよう育てるつもりです。安芸並みの花魁を育てるより、ずっと容易うございましょう。手間も金もさほどかかりませんしな」
「なるほど。惣名主のお目に留まったのなら、本物でござんしょうね。このまま順当に育つとよござんすが」
名も知らぬ少女は己(おの)が才を糧にして、銭見世の女郎に堕ちる運命から逃れた。とりあえず、ではあるが。このまま逃げ果(おお)せてほしい。
おゑんは萌黄色の茶を口に運ぶ。
美味い。仄かな渋みと柔らかな舌触りが上手く噛み合っている。
部屋は小さな庭に向けて戸を開け放してある。そこから、吉原の下午の風が微かに吹き込んできた。茶の味は、この風によく釣り合っていた。
なるほど、こういう茶が淹れられる娘なら逃げ切れるかもしれない。
「人の世というのは、わからぬものです。とてつもなく残酷なようで、気紛れのように人に望みをもたらす。幸せも不幸せもごちゃ混ぜになっている。面白いと言えば面白くもありますが」
「それが、惣名主のお考えですか」
「ただの戯言ですよ、先生」
平左衛門がふっと笑んだとき、襖が開き、甲三郎が入ってきた。やはり、物音はほとんど立てない。おゑんの家で顔を合わせると、甲三郎は足音も響かせるし、笑い声だって上げる。騒がしくはないが、動きや仕草に応じた音は立てるのだ。
さて、どちらが素に近いのか。
探っても詮無いから探りはしない。ただ、危ない男だとは思う。
「惣名主、差配しやした。直に詳しいことがわかると思いやす」
平左衛門は黒目を動かし、おゑんを見やった。
「ということです。先生、報せが入るまで暫しお待ちください」
「重ね重ね、まことにありがとうございます」
おゑんは頭を下げる。それしか、できなかった。
おゑん一人ではどうにも手配りできないことを、あっさりと為してしまう。この力に頼るしかあるまいと、腹を括って大門を潜った。その決意に間違いはなかったようだ。
頼るしかない。
「ではゆっくりと、お話を伺いましょうかな」
平左衛門が笑みを浮かべる。
「先生が我らに頼みたいこととは、何でしょうか」
平左衛門の笑みを受け止め、気息を整える。
「惣名主、あたしに暫く甲三郎さんを貸しちゃあもらえませんか」
甲三郎の肩がひくりと動いた。
平左衛門は変わらない。口元に笑みを残したまま、微動だにしなかった。
「貸すとは、どういう意味ですか、先生」
「まんまでござんすよ。甲三郎さんをお借りしたいのです。平たくいえば、あたしを助けてもらいたい。助力をお願いしたいのです」
「それはつまり、甲三郎を手足として使いたいと……そういうことですかな」
「はい」
「何のためにです」
「調べていただきたいことがあります。それも、幾つも」
「ふむ」と、平左衛門は声を漏らした。顎に手をやり、僅かに目を伏せる。
「言うまでもありませんが、甲三郎は吉原の首代です」
「はい」
「吉原の者は誰であろうと吉原の則の下で生きねばなりません。それは、花魁であろうと、銭見世の女郎であろうと、首代であろうと……惣名主であろうと同じです」
「はい」
「大門の外で生きていくことは赦されておらぬのですよ、先生」
「一年も二年も、あたしの許にいてくれと頼んではおりません。この一件が片付くまでお願いしたいのです」
「この一件とは、どの一件です。治兵衛殺しのことですかな」
(この章、続く)












