大戦末期、戦艦大和とともに沖縄水上特攻を命じられた駆逐艦響は周防灘で触雷、落後する。乗組員の浦賀少尉は、日本の内海すら米軍の機雷で埋め尽くされた現実に愕然とする。
 戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!


 数日後、松原は内海と待ち合わせて料亭へ向かう。庭を眺める一室に通され、ふたりともども床の間を向いて下座に膝を揃える。庭には小さな池があり、そのほとりに鹿威(ししおど)しが佇んでいた。
「俺は今日、本来なら呉へ出張だったのだぞ」
 ふたりきりであるのをいいことに、松原はさっそく文句を言った。
「懐かしいな。俺は最初に配属されたフネが呉鎮守府の籍だった」
「内海の昔話は知らん。休みを取るのに苦労した俺の愚痴を聞いてくれ。あと呉には懇意にしている掃海艇長がいてな、そいつと行きつけの飲み屋で一杯やるのが楽しみだった」
「愚痴を聞く気はないが、その艇長は苦労していそうだな。――そろそろだ」
 内海は廊下がきしむ音に姿勢を正し、障子が引かれるなり正座のまま深々と腰を折った。あわてて松原も口をつぐみ、頭を下げる。
「なんど言っても内海は堅苦しい礼儀を崩さんな。俺が海軍を馘(クビ)になってもう一五年ほど経つのに」
 入ってきた足音に、飄々(ひょうひょう)とした笑い声と衣擦(きぬず)れの音が続いた。松原が顔を上げると、右に座る内海のさらに向こうで、三つ揃いの背広を端正に着こなした老人が胡坐(あぐら)をかいていた。誰だ、と松原は首をかしげる。
「岸井貞吉です。松原くんといったか、内海から話は聞いている。以後、よろしく頼みます」
 老人は気取ることなく言った。一五年ほど前に海軍を去ったキシイテーキチと聞かされて、神経の太さには自負がある松原もちょっと目を見張った。
 岸井は現役時代、海軍随一の秀才と評され、大臣の就任を誰からも確実視されていた人だ。戦前の日本が二度締結した軍縮条約ではいずれも実現に奔走して成功したが、中将に昇進したところで、海軍内軍拡派の圧力によって予備役に編入、つまり馘となった。以後は海軍御用の兵器会社で社長に迎えられ、経営者として成功したが、見かけの兵力より国際協調を重視する海軍高官との交友を保っていたという。
 しかし、と松原は内心でなお首をかしげる。経歴や能力、人間関係はともかく、岸井はいま自称した通り民間人となって長い。終戦時点の旧海軍の人員や機密など、海軍再建に必要な知識があるとは思えない。
「俺は岸井閣下にお仕えしている」
 内海が言った。
「今日は岸井閣下がさるお方と昼食をご一緒される。閣下はお忙しく、その方がお越しになるまでの今しか、貴様のお目通りを願うタイミングがなかった」
「だから俺は民間人だ。いちおう齢(とし)だけは食っているから、さん付けくらいで呼んでくれたまえ。お目通りなど、なお仰々しい」
 品のよい笑い声を立てる岸井に、内海は恭しく黙礼してから松原に顔を向けた。
「本来ならここで失礼すべきだが、せっかくだから今から来られるお方を拝んでゆけ、との閣下の思(おぼ)し召しだ。もう少し待つぞ」
「内海によると、松原くんは変わり者らしいな。どれほど変わっているか、俺も見てみたいのだ」
「そのお方を見れば、俺たちの任務が容易ならざる重大事であると松原も分かってくれるはずだ。閣下はそうお考えなのだ」
 内海はだんだん小うるさくなり、岸井は軽やかな気配を崩さない。さらに別の「お方」が出てくるのか、といい加減、松原は呆れそうになった。
 とはいえ、とさらに考える。もと海軍中将の岸井が下座に腰を下ろしている。ならば上座を占める「お方」は誰か。存命中の大将か中将に、卒業後も序列として意識される兵学校の年次で、岸井の先輩にあたる者はそうおるまい。
「お越しでございます」
 障子の向こうから女将(おかみ)の細い声がした。続いて障子が引かれる。岸井が胡坐のまま小さく、内海は端座を保って深々と頭を下げた。
 松原は、今度こそ呆然と見やるしかなかった。
 小さな眼鏡をかけ、でっぷりした体躯を広やかな和装に包んだ男は、傲岸そのものといった顔で上座に腰を下ろした。
「何度かお目にかけました内海です。その隣は今後、内海の仕事を分担する松原くん。もと海軍少佐で、いまは海上保安庁の職員をやっております」
 それまで飄々としていた岸井が、能吏のごとく淀みない口調で説明する。
 きみ、と男は松原に声をかけた。
「旧軍人ながら公職追放を免れておるということは、掃海をやっておるのかね」
 はい、と子供のごとく松原は返事をする。
「ご苦労なことだ。国家国民のため、本務のほうも引き続きしっかり頼む」
 最後に来た男、吉田茂総理大臣は傲岸な顔のままで労(ねぎら)ってきた。

                 〈つづく〉
 

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