ポストフォーディズム時代の「推し」という自画像

だが実は、母性の暴走に満ちた社会に生きているのは、推される側だけではない。推す側もまた、現実のポストフォーディズムという母性が暴走しやすい時代に生きている。

たとえば前掲した信田は、企業や地方自治体の窓口対応が、語り口こそソフトになったものの、さまざまな場所で「あなたが選んだ場所だから」と伝えられることが増えたことを指摘する。あるいは企業の指導でも、これをしろというのではなく、これをしたほうがあなたのためなんじゃない、という語り口を選ぶようになった。もちろんこれは父性の暴走――パワーハラスメント――を避けるためではあるが、今私たちが生きる社会は、実際に母性で規範が語られやすい世の中ではある。信田は「二〇世紀末から資本主義社会の多くが直面している社会の液状化とポストフォーディズムの問題が、母の支配に象徴される」(『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』前掲書)と説明する。

(写真提供:Photo AC)

新自由主義的な市場原理主義の社会においては、さまざまなことが父性的な抑圧――「これをしろ」「これをするな」という言語化された規律と処罰――ではなく、母性的な抑圧――「あくまであなたの理想はわたしの理想と同じであるはずだ」という内面化された規範と疎外――によって操作される。

ルールに従わない人は、処罰されないが、疎外される。

それが現代の私たちが生きる日本社会なのである。河合の「母性社会」という言葉は慧眼だった。

そしてそんな母性社会に生きる私たちの最も濃度の高い戯画化こそ、推しなのではないか。

私たちは、推しを通して、ポストフォーディズム時代の夢を見る。

やりたい仕事を叶え、自発的に仕事を楽しんで、たくさんの人から評価され、功名アスピレーションも人気アスピレーションもどちらも満足させる。

――だがその夢の裏側には、たくさんの母たちの規範が渦巻いている。あなたとわたしの夢は同じはずだから、その夢を叶えるためには、こういうことをしないといけないんじゃない? こういうことはしたらだめなんじゃない?と。それを破るなら、あなたのことは愛せないよ?と。規範を外れたときの疎外の恐怖が、常に私たちの首を絞める。

現代社会で、理不尽な暴力や処罰は昔よりは少なくなり、ハラスメントも少しずつ減りつつあるのはたしかだろう。個人の意思が尊重されるようになったのも素晴らしいことだと思う。だが一方で、SNSをはじめとするインターネットの監視を通して、このように振舞わなければいけない、と、守らないと罪悪感を覚えさせるような規範が広がっていると感じている人は少なくないのではないか。

夢を叶えるならば、規範を守って、愛されなければならない。――現代に生きる私たちとは、父から殴られる恐怖の代わりに、母から愛されない恐怖を抱えて冷や汗をかきながら頑張って舞台に立とうとする子どものようなものなのかもしれない。