ラジオを聞いていると考える。たとえば音楽の番組では、自分の意見を言いながら音楽のおもしろさを教えてくれるのは、たいてい男の声だ。ただ原稿を読んでるようなのは、女の声だ。『飛ぶ教室』で、自分の意見をパキパキ言いつつ本のおもしろさを教えてくれる源一郎さんは男の声だ。それを受けとめる礒野アナは女の声だ(礒野さんにはすっかり頼っているあたしである)。

それからたとえば、七時前後のニュース。そのニュースでは一つのニュースを女の声と男の声が交互に読むのだ。小学校のときの卒業式の送辞を思い出した。五年生が数人で、ひとり一行ずつ、男女男女と交代で、何人もで読んだ。誰も際立たせないというあの頃の教育そのものだった。

送辞じゃあるまいし、ニュースがなんで交互なのか。まるでアナウンサーたちに意見を言わせないために細切れにしているようだ。グレゴリオ聖歌が一本調子なのは聖書の言葉にへんな解釈を入れないためだというのを昔、親が聖職者だったドイツの友人から聞いたことを思い出した。

てなことを毎回考えてるが、車の中のラジオっていうのは聞きっぱなしで、目的地に着いたらそのまま忘れてしまう。目的地に着いたら違うことで頭がいっぱいになる。そしてまた別の日に聞いて同じことを考えるまで、忘れている。

七時半には『やさしいことばニュース』がある。言葉も意味もゆっくり噛みくだいてシンプルにして、噛んで含めるように話しかけるのは女の声だ。幼稚園の先生のようだなと思う。とても優しい。それなのに、それがあたしはどうも居心地がわるい。アメリカで二十数年間移民として暮らしたときの記憶を思い出すんだと思う。