英語が聞き取れないし、伝えられない。そのせいで、人にまともな大人の人間としては扱われなかったような気がする。もちろん、カリフォルニアの人々はリベラルであって、差別なんかしないということになっている。それでもそこにうっすら、すかしっぺのような差別、いや差別と言うのも大げさだ、ほんのちょっと「見下す」というそんな気持ちがあるときがあった。見下すほうは気づいてないのだが、見下されたとき、見下されたほうは気づいてるのだった。
あたしが住み始めたばっかりの頃、今よりもっとずっと英語に慣れてなかった頃だが、わかってるふりしてしゃべっていたのを相手(同世代の女)に見抜かれて、彼女はあたしに、シンプルな言葉で、ゆっくりと話してくれた。その時の傷つけられた気持ちは忘れがたい。向こうの思いやりも親切心もリベラルな心意気もよくわかった。全部わかった。全部わかっても私は言いたい。人間には尊厳というものがある。
という経験がある。わからなくてもふつうの話し方で話しかけられたい、と、そうあたしは思ふのである。てなことを、NHKで働く友人に言ってみたことがある。
彼は反論して、それにはその必然性があるのだと言った。彼は日本の中の移民たちにずいぶん話を聞いたそうだ。彼らは小学生でもわかるような日本語でニュースを伝えてくれれば、すごく助かると言ってたそうだ。
うむむむ、あたしは自分の意見をひっこめた。尊厳より生活を優先させるときもある。英語をしゃべる移民だったあたしには、その必要性も、よくわかる。
『サワコと比呂美 女じまい』(著:阿川 佐和子, 伊藤 比呂美)
「ブラジャー卒業」「さらば、つけま」「偲ぶ会にピンク着て」「親の骨はコーヒーミルで……」 大まじめに非常識、70'sふたりの女がたりの結論は「歳をとるって面白い!」。
親・夫・親友――大切な人との別れは、こうして生きる力になった。






