父の抑圧、主婦業への鬱屈

札幌に戻らず、東京での滞在を決めたのは、多くの作家をはじめ、新聞社や出版社の関係者と接点を持つことができたからだと考えられる。その1人に尊敬する小川未明は含まれるだろう。千代は「私が文壇で尊敬しているのは小川未明氏で、これまでも上京毎によくお伺い致しましたが、あの創作に対する真摯な態度、そのお話振りなどに接しますと、涙ぐましい位の感動を与えられます」と述べている。また「思想的にも氏の影響を受けているかも知れません」ともいう(『読売新聞』1922年5月15日朝刊)。

ここで注目すべきは、札幌から何度も上京しており、その度に小川未明のもとを訪れていることである。そのことと、先ほどの「墓を発く」の修正末尾の書き込みを重ねると、やはり滝田と千代との間で何度かやり取りがあったと考えるのが自然だ。その「墓を発く」については、千代が代用教員をしていたときに感じた、「階級組織の欠陥がどんなに人類の上に悲しむべき運命を齎(もた)らすかという事を、主題として扱ったものでした」という(同前)。

『宇野千代: 昭和モダニズムの伝道者』(著:刑部芳則/NHK出版)

玉田精磨との熱愛の悲劇的な結末を「階級組織の欠陥」によるものと感じ、それを主題にして書こうとした背景には、小川の自然主義的な思想に影響を受けていたことがあった。また小川に私淑したのには、父の俊次から理不尽な抑圧を受けたことに対する思いがあったと考えられる。

上の話を報じる大正11年5月15日の『読売新聞』には、「藤村千代夫人(巣鴨の寓居で)」とキャプションのある、縦縞模様の着物に花柄模様の羽織を着た正座姿の千代の写真が掲載されている。おそらく西巣鴨の藤村亮弌の家で撮られたものだと思われる。

そして6月を迎えると、「今日の女流作家と時代との交渉に就て――真の解放は前途遼遠――」と題し、札幌に戻った場合の生活を想起するような文章を書いている。「私は家庭を持って居ます」という書き出しで、「私は何でも、人にやって貰った仕事が気に入らない性分ですから、人を使うことは大嫌いです」「縫いものなどを他処へ出すことが出来ません。外から食べものを取寄せることもしません。何から何まで、自分の手を通さないでは気が済まないのです」という(同前、1922年6月10日朝刊)。

家事全般を自らの手で行わなければ気が済まず、女中を雇うのは性分に合わなかった。ところが、主婦と作家の生活を天秤にかけると、次のような不満を吐露する。「掃除をして居ながら箒を叩き付けたくなる時もあります。米を磨いで居ながら「こんなまだるっこい事をしていて好いのか」と思って、米を其処いら中ぶち撒けてしまいたいことさえあります。それは一時も早く雑用から逃れて、机に向いたいと思うからです」(同前)。

札幌に帰れば、このような感情が込み上げる生活が待っている。東京で作家への成功の道の第一歩を踏んだ千代にとって、札幌で主婦へ戻る道は日々遠くなっていく。

そうした感情がうかがえる証言が残っている。千代は「作家生活に亭主は邪魔か」という座談会で、「普通奥さんがすることを、道楽みたような気持ちでやって見たんです。奥さんらしくなり過ぎて居る、それが面白い間はそれが邪魔だと思わん、朝早く起きて蒲団を整理するのはチットもいやだとは思わん、けれどもそれが何だかいやだと思いはじめると迚(とて)もいやなんです。だから私には理屈はなくて、あれなんだけども、初めのうちは、いやでも何でもない、それをいやだと思いはじめると、これではよい小説は書けないということになってしまう」と述べている(同前、1936年12月13日朝刊)。東京で滞在するうちに、こうした思いが芽生えてしまったのである。