二人三脚で歩んで行ける相手
しかし、尾崎士郎の自叙伝的小説である「厭世立志伝」によれば、大正11年12月頃に、藤村が上京したことが記されている。藤村が社会学の論文を執筆して改造社に原稿を送ったものの、返信がなかったので確かめるためだった。しかし結果的に改造社では相手にされなかった。千代が小説家を志して東京に滞在するなら、自分もと考えたのかもしれない。書籍化するまで長逗留になると覚悟して大塚に下宿した。
藤村は尾崎に、妻が「いろいろお世話になったそうで」と挨拶しており、千代から尾崎の話を聞いていたようだ。これは史料がないので推測の域は出ないが、晩年までの千代の行動を見ていると、札幌の藤村に手紙を出していなかったとは思えない。場合によっては札幌と東京とを往復し、藤村と今後について話し合っていたことも考えられる。仮に札幌に戻ったとすれば、その滞在期間に、あらためて東京での生活への思いが強くなったのではないか。そう考えると、藤村の再度の上京は、千代の夫として、尾崎と話し合ってみたいと思ったからだったとしても不思議ではない。
本郷の肉屋江知勝(えちかつ)で3人は鍋を囲みながら酒を飲んだ。藤村は尾崎になぜ結婚しないのかと質問し、世に活躍している評論家と比べて自分の力は見劣りしないと主張した。そうした話に尾崎は耐えられなくなり先に帰ろうとすると、藤村は今度2人だけで一席設けようと誘った。その後、千代は藤村と2、3軒の酒場や居酒屋を回って宿に帰った。このとき2人は喧嘩をしたというが、その背景には尾崎の存在があるのではないか。千代は「いつもだったら、あたしの方があやまってしまうんだけれど、どうしてもそんな気にはなれないの」という(尾崎士郎「厭世立志伝」〔『尾崎士郎全集』二〕)。
こういう場合は、千代が引き止めれば、藤村も無理に帰ろうとはしなかった。しかし、千代はそれをせず、藤村を押し出すように大塚駅まで来た。そのことも面白くなかったのか、藤村は「カンカンに怒ってしまって、自分で切符を買うと、あたしの方なんか見向きもしないで、どんどん改札口へいってしまう」。藤村が「さようなら、とたたきつけるような声でいうと」、千代も「ついうっかり、さようなら、といってしまった」(同前)。少し脚色があるかもしれないが、おおよそ尾崎が千代から聞いた話を文章化したと見てよいだろう。
千代は後味の悪い別れ方であったと後悔したが、目の前にいる尾崎に気持ちは移っていた。千代にとって尾崎は、小説家として二人三脚で歩んで行くには開放的な存在であったと思われる。藤村も決して千代を束縛する存在ではなかったが、エリートで銀行員である彼は、尾崎に比べると謹厳実直であったろう。また社会学の原稿は相手にされず、研究者や評論家として成功する見込みは少なかった。それに対して尾崎は小説家として活躍できるかもしれない。
東京から離れた北海道の地で、銀行勤務の夫の帰りを待ちながら主婦としての家事全般を行いつつ、机に向かって執筆活動を続ける日々に閉塞感を覚えたのかもしれない。尾崎となら自由奔放な作家活動ができ、また彼を通して文学界で活躍する場も広がると感じたのではなかったか。
※本稿は、『宇野千代: 昭和モダニズムの伝道者』(NHK出版)の一部を再編集したものです。
『宇野千代: 昭和モダニズムの伝道者』(著:刑部芳則/NHK出版)
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