養父母もおどろくほど、ぼくは紀久子をかわいがった。この年ごろの男の子にしては、少々へんなほどよく面倒をみたと思う。煉乳をといてのませ、おむつをかえてやり、子守唄をうたって寝かしつけた。

麻央のためにぼくは子守唄をつくったことがある。これは必ずしも麻央だけにぼくが捧げたものではなくて、ぼくの心には、やはり幼くして死んでしまった二人の妹への、鎮魂歌といったような気持もあるのだ。麻央がむずかると、抱きあげて、無器用にゆすりながら、ぼくはぼくの子守唄をうたう。

泣きたきゃ お泣きよ 麻央
悲しい涙 怖い涙
涙の一つ一つを
 パパが拾ってあげるから
 星のみえない空もある
 花の咲かない庭もある
 泣きたきゃ お泣きよ 麻央
 いつでも麻央は 麻央なのさ
泣きたきゃ お泣きよ 麻央
さびしい夢や つらい夢
その夢の一つ一つを
パパが食べてあげるから
 一人ぽっちの道を行き
 冷めたい森に まよいこみ
 泣きたきゃ お泣きよ 麻央
 いつでも麻央は 麻央なのさ
泣きたきゃ お泣きよ 麻央
いつでもパパが みてるから
 涙の一つ一つで
 パパより大きく なるんだよ

 

「紀久子、天国へいけよ、天国へいくんだぞ」

昭和十六年十一月十四日の午後十一時、二階に一人寝ていたぼくは、階下の異常な気配に目覚め、梯子段のところまで来ると、「紀久ちゃん、紀久ちゃん」激しく呼ぶ養母の声がひびき、そのあまりに切迫した気配に、思わず立ちすくむと、「タオル、タオルでくるんで」養父がいい、すぐに玄関の戸の開く音がした。

ぼくは膝をガクガクふるわせながら、梯子のいちばん上に腰を下していた。

二十分ばかりして、ふたたび玄関の戸がひびき、祖母の駈け寄る足音、「どうでした」はや涙声でたずねるのに養父はいかにも力なく一言「駄目」とたんに女同士の号泣が起こり、養父はしばらくだまっていたが、怒鳴るように「紀久子、天国へいけよ、天国へいくんだぞ」といった。

二月三日が誕生日だから、十ヵ月余りの生命で、発育はきわめてよく、すでに歩いていた。死の前、風邪をひいて、膿のような色の鼻汁を出し、苦しそうなのを見かねて、祖母は自分の口でこれを吸いとってやり、また緑色の便が二、三日続いているときいたが、ぼくの顔をみれば、ふだんのように笑っていた。

まさか死ぬなどと、つゆ思えなかったから、ぼくはただ呆然として、「昭如が悲しむだろう。今は寝かしておきなさい」という父の言葉の中の、自分の名前にひょいとわれにかえり、たしかに今、下へ降りていっても、とても涙など出そうになく、どういう表情をし、なんといっていいかわからないから、とにかく布団へもぐり、うとうとし、次に眼を覚ますと、すでに明けていて、まず線香のつよい香りが鼻をうった。

「紀久子は昨夜十一時四十分に死んだ。君は学校へいって、先生に休ませていただくようおねがいしてきなさい」ごく事務的に父はいい、紀久子は八畳の部屋に、北枕に寝かされ、顔にかけられたガーゼの白と、名前にちなみ、そして季節の花である菊が、すでに一面にかざられ、その色の対照があざやかだった。紀久子の顔色は、まだ生きていた時とかわらぬようにみえた。