「風呂へ入って、なんともちいさな麻央の骨格をみる時、これが生き続けていること自体、奇蹟のように思えて、おねがいだから死なないでくれと、祈りたくなる」

このちいさな死について、前にぼくは贖罪の心といったが、当然、ぼくに責任はない。

紀久子の死因は、急性腸炎とされ、もともと、虚弱な体質だったのであろう。あまり突然の死に、実感がわかなかった。悲しくなったのは、遺品のすべて、父の配慮で処分され、ただ厖大に買い占めた煉乳や、粉ミルクが防空壕にしまいこまれていて、食べ盛りのぼくは養母の眼を盗み、入りこみ、釘で罐に穴をあけ、ドロリとしたミルクを吸いこむ時、湿気の多い、昏い穴の中にひっそり坐っている時、わけもなく涙があふれ、無性に紀久子があわれに思えてくる。いったい何のために生まれてきたのだと、腹立たしくさえなった。

赤ん坊がすぐに死んでしまうという脅えは、いまだに消えない。麻央が少し風邪でもひこうものなら、ぼくは実にしばしば、寝ている麻央の鼻先に掌を近づけ、かすかな息づかいをたしかめないではいられないのだ。ウンチをみて、色と形が通常ならば、それだけで麻央をやんやとほめ讃えたくなる。風呂へ入って、なんともちいさな麻央の骨格をみる時、これが生き続けていること自体、奇蹟のように思えて、おねがいだから死なないでくれと、祈りたくなる。

 

子ども2人で焼跡にほうり出され

しかし紀久子は、まだしあわせであった。紀久子が死んでしばらくすると太平洋戦争がはじまり、そして今から思えば敗色あきらかとなっていた、だが当時は、いつか連合艦隊がアメリカをやっつけると信じこめた昭和十九年の三月に、二人目の妹、恵子が、これまた突然やって来た。ぼくは中学二年で、期末試験を終え、防空気球の空に浮かぶ春の午後、家へ帰ると赤ん坊の泣き声がし、生後二週間目の恵子が、祖母に抱かれていた。

紀久子の記憶は、よく肥り、絵にかいたような明るい赤ん坊として残っているが、恵子は、痩せていて、誕生過ぎても一人歩きができず、だがすでに、いかにも整った眼鼻立ちであって、「これはきっと楚々とした美人になるな」と、年相応に女に興味をいだきはじめたぼくは感じ、静かな赤ん坊とでもいいたい印象だった。

からだはちいさかったが、恵子は病気をせず、次第に激しくなった空襲に、冷たい防空壕で夜を過ごしても、脅えることなく、カタカタと鳴る木の玩具がお気に入りで、それさえあればきげんがいい。

三月十七日、四月二十二日の空襲はまぬかれたが、六月五日のそれは、ぼくの住んでいた神戸市灘区中郷町三丁目あたりに、まず手はじめの焼夷弾攻撃を行ない、たちまちすべての空間に、爆弾の落下音がみちみち、まるで手でさわれるような感じで、音がとびはね、そしてあたりきらわず焔を吹き出す修羅場にわが家は変じ、あれは絶対に攻撃というものではない、殺戮なのだ。養父は、二百五十キロの焼夷爆弾の直撃を受けて、五体四散し、養母、祖母もなくなり、疎開していた恵子と、まったくの偶然で生き残ったぼくが、焼跡にほうり出された。

疎開先へ恵子を迎えに行き、そこは大阪の郊外で、やがて夏にさしかかろうとする淀川の堤防に二人腰を下ろし、食べさせようと持って来た、焼け出されに配られる麦まじりの握り飯を雑嚢から出すと、それはすでに腐りかけ糸をひいている。麦の中から白い米粒をえらんで恵子の口に入れ、恵子は無心に木の玩具をカタカタと鳴らし、淀の川筋を、どういうわけか自転車満載した船が、ゆっくりと下っていった。