手記が掲載された『婦人公論』1967年3月号 表紙・誌面

泣き出すと背負って表へ出る。もう蛍もいない。養父母の死を悲しむゆとりなどなく、うとうと歩きながら居眠りする具合で、ぼくはついにたまらず恵子をなぐった。はじめはお尻だったが、それでも泣くと、拳をかためて頭をなぐった。頭をなぐられると、恵子は泣きやむ。味をしめて、さすが昼間はやらなかったが、夜は、すぐになぐった。

ぼくは、いくら赤ん坊でも、痛さが身にしみると泣きやむのかと、自分勝手に考えていたのだが、つい最近、ある医者から、赤ん坊はすぐに軽い脳震盪をおこす。たとえば頭をどこかに打ちつけると、一分か二分気を失うが、大人はそれを眠ったとみて気がつかないものだという話をきいた。

この時、ぼくは自分で顔のあおざめるのがはっきりわかった。まるで別の話題から、この説がとび出てきたのだが、恵子の頭をなぐったという罪悪感は、常に心にひっかかっている。恵子は、泣くと痛い目にあう、だから泣かないでいようと思い、しかしつい泣いてコツンをくい、あらしくじったとベロを出しながら泣くのをやめたのではない。ぼくの、ねむい余りのうっぷんこめたコブシでなぐられて気を失っていたのだ。

 

恵子にしてやれなかったことを…

西宮にもいられず、福井県春江に、ぼくたちはながれていき、戦争の終った一週間後、もう泣く力も食べる力もなく、うとうととねむりつづけ、ぼくが銭湯から帰ってくると、恵子は死んでいた。

動かない、息をしてないとわかった時、紀久子の死の際の養父のように、タオルでからだをくるみ医者に走り、混みあう待合室で、錯乱していたのだろう順番を待ち、看護婦に「お嬢ちゃん、どこがお悪いの」ときかれた時、へんに恥ずかしかった。「死んじゃったんです」ぼさっというと、あたりの人間がドヤドヤとかこみ、恵子の額に手をあて、「あ、冷めたくなっとる」「かわいそうに」口々につぶやき、そこへ医者があらわれ、診察室に通しもせず、恵子の胸に聴診器をあて、「栄養不良やな、ようけあるねん」といった。

近くの寺の坊主を頼み、形ばかり経をあげてもらい、紀久子は紀芳久遠童女という戒名だったから、恵子にも頼むと、その坊主、かたわらの紙片に、ただ恵子童女とだけ書き、そのいかにもでたら目な感じに、ぼくは泣いた。

棺は座棺で、燃えにくいからと着物をはがれた恵子の、まさに骨と皮ばかりのからだがおさめられ、その周囲に大豆の枯枝が押しこまれて、いかにも痛そうであった。田圃の真ん中の、石の炉で恵子は木炭によって灰と化し、骨は、拾おうにも細々にくだけ、はじめから終りまで、かたわらにいたのはぼく一人、灰のひとつかみを、古い胃腸薬の空缶に入れてもちかえった。