恵子にしてやれなかったことを、ぼくは麻央にしている、といえる。

あの昭和二十年の夏、十四歳の少年が、一年三ヵ月の赤ん坊を、育てられなかったからといって、別に気にやむことはないだろう。恵子の運がわるかったといえばそれまでだが、しかし一年三ヵ月の赤ん坊の食物のピンをはね、その頭をブンなぐった記憶はなくなるものではない。

麻央がゴーフル、クッキー、チョコレートを食べあらし、さては蜜柑、リンゴ、バナナを食べ残すのをみる時、まったく感傷的といえばそれまでだが、恵子を想い出す。この一片でいいから食べさしてやりたかったと、胸が苦しくなる。贅沢になれた麻央を憎くさえ思う。

タイムマシンがあったら、今あるお菓子をみんなかかえて、恵子に食べさせてやりたい。六月五日の朝から八月二十二日の午後死ぬまで、ついにお腹をすかせっぱなしで死んでしまった女の子なんて、あまりにかわいそう過ぎる。ぼくは恵子のことを考えると、どうにもならなくなってしまうのだ。

ぼくはだから、いい父親ではない。ぼくのような経験は、やはり特殊なもので、麻央に対しても、世の中の父親とは少しちがう。いや、実は同じなのかも知れないが、きっと他の父親はこうではあるまいと思うだけでも、世間並みとはいえぬだろう。

はかなくみじめに死んでしまった二人の妹のイメージが、どうしても重なる年齢に、麻央はいるから、ぼくは父親としての資格はない。

いったいいつまで麻央をかばっていられるか、不安が常にある。

どんな環境におかれても、やさしい心だけは失わぬそしてそのための、父の唄を、ぼくは麻央に残してやりたいとねがう。たとえ、卑怯なぼくが麻央から逃げ出すようなことがあっても、かつてすばらしい父親のあったことを、誇りにできるような、一つの唄を、与えたいと考える。

今のところ、ぼくが娘にしてやれることはこれ以外にない。

娘・麻央さんが見た父「少年の顔に戻って天国へ旅立った父へ」を併せて読む


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空襲、原爆投下、玉音放送・・・・・・そのとき日本人は何を思ったか
高見順、永井荷風、山田風太郎、木戸幸一らの日記に当時の心性を探る。
「終戦日記」を渉猟した旧版に、新たに「火垂るの墓」の原点「プレイボーイの子守唄」ほか、〈焼跡闇市派〉として戦争体験を綴ったエッセイ十三篇を増補した新編集版。〈解説〉村上玄一