本随筆が収録されている「新編-「終戦日記」を読む」(著:野坂昭如/中公文庫)

食欲の前には、すべて愛も、やさしさも色を失った

西宮の、山の近くに部屋を借り、一度、空襲を受けたら、とても防空戦士などと気取ってはいられない。警報発令と同時に、安全度の高い横穴式防空壕に、恵子ひっかかえてとびこみ、臆病者とそしられたが、あのゴーッとうなりをあげておちかかる怖ろしさには勝てない。

貯水池と、そこから流れでる小川があり、夜になると無数の蛍がとびかって、草のしげみに手をのばせば、いくらもとれる。自分の息を胸に吹きかけて、せめて暑さをしのぎたいとこころみるような夏の夜に、蚊帳の中に蛍をはなし、かつて昭和十年であったか、神戸沖で観艦式があり、それを祝って六甲山の中腹に、戦艦をかたどったイルミネーションが夜かがやき、そんなことを蛍の、暗闇に点滅する光に思い出し、低く軍艦マーチをうたうと、恵子はうれしそうに笑った。父の財産は遺されていたが、闇で食料を買う才覚は、まだない。

ぼく自身十四歳で、食べ盛りなのだ。水ばかりといっていい粥を、ぼくが山からとってきた薪と、七輪はないから、まるでキャンプのように石をならべたカマドで炊き、いくら恵子に食べさせなければと考えても、粥をよそう時、どうしても底に沈んだ米粒を自分の茶碗にとり、重湯の部分を恵子に与える。いや、さじでその口に運ぶ時、つい熱いのをさますつもりでふうふう吹くついでに、自分がつるりと飲んでしまう。ぼくは一人っ子で、こらえ性がなくわがままに育った。両親を失い、急速に大人びはしたが、食欲だけは、どうにもならぬ。

日増しに、それでなくても痩せていた恵子は、骨があらわになり、あわててお腹にわるいとわかっていながら、脱脂大豆のフライパンで煎ったのなど与えると、そのままウンチに出た。そのくせ、道ばたの家庭菜園から盗んだトマトを、これは持ってかえって食べさせようと心に決めていても、つい自分の腹中におさめてしまう。

気まぐれな隣人が、恵子に水あめを箸にまきつけてくれれば、これもなめてしまう。食物が眼の前にない時は、いろいろ気づかって、お腹をこわしているようだから、御飯を工作でならったソクイつくるように、ねって与えようとか、香枦園の浜へ行って魚をとって食べさせようと考えるのだが、いざ眼の前にそれをみると、餓鬼に変じてしまう。

恵子を足手まといに感じたことは、ほとんどない。塩が足りないから、四キロあまりを海まで、恵子を背負って歩き、海水をびんにつめてもちかえり、その往きかえりにP51にねらわれ、あわてて夙川の川床にとびおり、すぐ眼の前を機銃の掃射が、キナ臭いにおいとともに走りすぎ、こういう時は恵子をしっかり胸にだいてかばう。おしめの洗濯も苦にならないし、同じ年ごろの中学生の集団のそばを赤ん坊ひっちょって歩くことに恥ずかしさを感じなかった。

ぼくは、恵子を愛していたと自信もっていえるが、食欲の前には、すべて愛も、やさしさも色を失ったのだ。

 

泣き出すと背負って表へ出る。もう蛍もいない

恵子はやがて、夜、ねむらなくなった。たぶん、空腹のためではないかと思う。しずかな赤ん坊だったのに、年中、泣きつづけるようになった。ようやくできた一人歩きも、たちまち逆もどりして、はうのがやっとの状態となった。顔つきも猿に似て来た。

恵子の生命力は、きっと強かったのだろう。骨と皮になっても生きつづけ、いくらとっても、すぐガーゼの肌着の縫い目にびっしりたかる虱とともに生きていた。

夜、ほんの二十分ほど寝ると、たちまち火のついたように泣き出し、これには部屋を借りている家の人が文句をつけた。「家の子供は、昼間、御国のために工場で働いているんですからね、なんとかして下さいよ」五十がらみの未亡人が顔を合わせるといい、いや人のことをいう前に、ぼくも閉口した。