
戦後、海上保安庁で日本周辺の掃海任務にあたっていた浦賀だが、ある日、緊急電により下関へ向かう。そこには多数の掃海艇が集結していた……。当時の日本の難しい立場を背景に約三十年も秘された事実をもとに、日本人にもっと知ってもらいたいと願う直木賞作家の著者が、全力で挑む歴史大作、ここに開幕!
第三章 出動
一
昭和二五年、六月二五日の未明。
朝鮮人民軍は北緯三八度線の全域で大規模な砲撃を行った。続いて戦車部隊が突破口を開き、計一〇個師団の戦力で南へなだれ込んだ。奇襲を受けた大韓民国軍は、開戦からわずか三日で首都ソウルを奪われ、さらなる後退を強いられた。
アメリカはただちに軍事介入を行った。また国際連合にはたらきかけて韓国を救援する国連軍の結成を承認させた。左派勢力と交戦していたフィリピンおよびベトナム駐留フランス軍への軍事援助を決め、大陸を制覇した中華人民共和国を牽制するために台湾海峡へ海軍を派遣した。朝鮮半島の戦争は、東西両陣営の冷戦を一気に本格化させた。
国連軍は、釜山(プサン)を中心とする半島の一角まで追い詰められた。ただし、それまでの絶望的な撤退戦が稼いだ時間で、強固な防衛線を構築していた。朝鮮人民軍は急速な進撃に補給が追い付かず、防衛線を突破できなかった。
八月がはじまったころ、戦争は早くも膠着状態におちいった。
そのころ、戦場と海ひとつを挟んだ日本の片隅でも、小さな騒ぎが起こっていた。
蒸し暑い日の昼下がり、大阪市西淀川区の交番に、中年の女性が駆け込んだ。そのあたりではやや古風となった素潜り漁を生業(なりわい)としている海女(あま)で、さっきまで近くの海へ小舟で漕ぎ出し、海藻を採っていたという。
交番にいた警官は、地域の巡回や万引き少年の説諭、遺失届の受理でずっと忙しく、すっかり伸びてしまった出前のうどんを手繰ろうと割り箸を割ったばかりだった。
「バクダンでっせ。海に」
箸一本ずつを両手に持っていた警官に、女性は何度も叫んだ。
通報はいち警官が処理できる範囲を超えていた。ただちに所轄の警察署へ報告され、大阪城内の旧陸軍庁舎を使っている大阪市警視庁まで上がり、東区北浜の淀屋橋あたりに事務所を構える海上保安庁第五管区航路啓開部に転送され、広島県呉市の同庁第六管区航路啓開部まで至り、五管航啓部に帰ってきた。
五管航啓部長、奈佐(なさ)吾郎は単身、大阪港に停泊している六管所属の呉磁気啓開隊を訪れた。隊はMS―62「ゆうちどり」を母船とし、駆特型のMS艇四隻で大阪湾の掃海にあたっていて、このときは一日だけの休暇を過ごしていた。
「はじめまして、奈佐です。突然訪れてしまい、申し訳ない」
ゆうちどりの甲板へ上がるなり、奈佐は頭を下げた。出迎えた隊指揮官代理の浦賀新吉は、さっそくあわてた。
「いえ、そんなことは。ともかく士官室へご案内します」
うむ、という奈佐は声もうなずきも重々しい。古武士を思わせる風格があり、浦賀はちょっと気圧(けお)されてしまう。
「用件は手短に済むものだが、立ち話にふさわしいものでもない。お邪魔する」
言ってから、奈佐はぐるりと周囲を見回した。
「大きいフネだね、乗り心地も良いと聞くが」
「良いには良いのですが」
浦賀は後頭部の下あたりをこりこりと掻いた。
ゆうちどりは、もともと旧海軍が建造した飛行機救難船だった。排水量は駆特の二倍以上あり、図体も相応に大きい。しばらく接収していた進駐軍では遊覧船として使われていた。軍隊に遊覧船が必要かどうか浦賀には分からないが、占領地での休暇を楽しみたい軍の高官や、視察名目の観光に来た本国の議員さまを乗せていたのかもしれない。海上保安庁の発足に伴って返還されてからは、内部空間の余裕を生かして掃海母船となった。
乗り心地が良いのは確かなので、小さい掃海艇が性に合っていると自覚している浦賀としては、ゆうちどりを使っているのは正直、不本意だった。かつ、隊付として仕えていた指揮官の急病で、齢(とし)に似合わぬ指揮官代理にされたばかりだったから、気後れもある。
ともあれ、士官室へ入る。向かい合ってテーブルに着くなり、奈佐は切り出した。
「本日、当管区にて不発の航空爆弾が発見された。発見者は素潜りの漁師、場所は大阪市西淀川区の沖合五キロ、水深約一〇メートルの海底。この処分のために貴隊の協力を願いたい。六管にも話は通してある」
処分は民間会社の潜水夫による爆破で行う。ただし何でも民間任せにはできないから、ゆうちどりには現場での指揮、警戒にあたってほしい、と奈佐は続けた。警戒とはつまり、爆破作業中に民間船をうろつかせないよう見張る、ということだ。
困ったことに、と奈佐は続けた。
「うちの管区ではすぐに出せるフネがないのだ。『日施掃海』による配置の玉突きで、所属の船艇が減ってしまってね」
朝鮮戦争が始まると、日本各地の航空基地からは軍用機が昼夜を問わず発着し、港湾からは陸軍部隊が続々と釜山へ送られるようになった。
国連軍の後方基地と化した日本では、東側陣営の潜水艦による港湾への機雷敷設が危惧された。海上保安庁はアメリカ軍から佐世保と東京湾の掃海を指示され、人手が足りない各管区から計一六隻の掃海艇をなんとか捻り出し、実施している。ただし、いつ機雷を敷設されるか分からないし、掃海により安全が確認できたあとで敷設される可能性もある。だからこの掃海は毎日行われ、日施掃海と呼ばれている。
機雷はただの兵器ではない、と改めて浦賀は思う。
敷設が実際に確認されなくとも、されたかもしれないという可能性だけで、航路は塞がれてしまう。航路の寸断はただの嫌がらせではなく、かつての日本がそうだったように国家の存続、戦争の趨勢(すうせい)を左右する。
機雷は核兵器と並ぶ戦略兵器である、と説く人もいる。
核兵器のほうは去年にソ連が原爆の開発に成功し、独占を崩されたアメリカは水素爆弾の開発に着手すると公表した。核を巡って始まった競争にはいずれ他国も参入し、核兵器は世界に広がると予想されている。ただし、その開発には技術力と国力が必要となる。広島、長崎に続く実戦使用の可能性も朝鮮戦争によって現実味を帯びてきたが、人道に反する兵器という認識も世界の市民は持ち始めていて、おいそれとは使えない。つまり核兵器は、保有も使用も難しい。
対して機雷は、それほどの技術力を要しない。最新型の感応機雷でなく百年前に実用化されたままの機雷であっても、発見しにくく、もろい船底をぶち破るという脅威は変わらない。コストもずっと安い。非交戦国や民間の船舶になるべく被害が生じないよう設けられた国際条約のほか、使用の制約もない。
可能性だけで一国を存亡の淵に叩き落とす。それが機雷だ。一隻から数隻の小さなフネで一国を存亡の淵から救いあげる。それが掃海だ。などと浦賀はふと思い至る。
ただし掃海隊の指揮官代理としては、奈佐部長に別の質問がある。
「爆発物の処分は占領軍が行う決まりでは」
「その占領軍の処分要員は、朝鮮半島へ出払っている。幸いというべきか、処分は近々にも日本側に移管される予定だったそうで、東京の本庁では、民間のサルベージ会社に処分を委託する予定で話を進めていた。今回の件にあたり、先走りを承知で、わが管区と付き合いのある会社に私から処分を依頼したところ、快諾してくれた。ただ、先ほど申したようにフネがないため、五管のゆうちどりにも助力を願った次第である。よろしいか」
「もちろんご協力いたします。私はまだ水中での処分の経験がありませんから、立ち会う機会をいただけて、むしろ感謝しております」
断る理由がない浦賀は、素直にうなずいた。
「ありがとう。作業員の到着時刻など、仔細は追って連絡します。漁協との交渉など一切は五管の責任で遺漏なく行います」
そう言い、奈佐は続けた。
「ついに海上保安庁にも公職追放の指示が出た。私自身は甘んじて失職を受け入れるつもりだが、
「私は軍歴こそ二年もありませんでしたが、寂しい思いは同じです」
浦賀は同意し、前に考えていた海技免状試験の勉強をほったらかしていたことを思い出した。
「卑下することはない。任官してすぐ戦争が終わったということだろうが、きみの軍歴は海軍が最も困難だった時期にあたっている」
「私は『響』で航海士をやっていまして、触雷で艦隊特攻から落伍したあとは新潟で掃海にあたりました。奈佐部長はどうされていましたか」
話が雑談に移っているが、浦賀は他愛ない天気の話ではなく、ぶしつけかもしれない前歴を聞いてしまった。兵学校時代に憧れていた海軍将校の雰囲気が、奈佐に濃密だったからだ。
「きみと同じ航海畑だ。終戦までの二年ちょっとは『高雄』の航海長をやっていた」
少しためらいを見せてから奈佐は答えた。詳しく語れば自慢にしかならないほど赫々(かくかく)たる戦歴であると知る浦賀は、尊敬のあまりちょっと目を剥いてしまった。
高雄は重巡洋艦で、日中戦争のころから数々の実戦を潜り抜けた。マリアナとレイテの二度、旧海軍がアメリカに挑んだ決戦にも参加している。戦後はイギリス海軍に接収されたが、満身創痍(そうい)だったためか自沈処分となった。浦賀は全艦艇の運命を頭に叩き込んでいるわけではないが、思い出深い響と同じく終戦まで生き残った数少ない艦艇の逸話は、聞いたり読んだりする都度(つど)、頭に焼き付いた。
「戦後は畑違いの掃海をやり、東亜丸にも一〇か月ほど乗っていた。お互い、いま生きているのは何かの縁なのだろうな」
奈佐はそう続けた。東亜丸は、自らの船体で機雷を起爆させて処分する試航船の一隻で、並の掃海艇より危険性は高い。
生きている縁、と浦賀は胸の内で繰り返した。 〈つづく〉
