その論文の公開日に、すでに明美は亡くなっていた。しかし彼女の論文は依然として存在し、他者の研究の足がかりとして機能していた。論文そのものが「もっと知りたい」という衝動を、世界へ向けて放射していた。

 ――まるでまだ生きているみたいに。

 厚く氷が張った悲しみの湖から、柔らかい水がひとすじ流れた。

 

 待ち合わせをした日本橋の百貨店はクリスマスムードに包まれていた。

 クリスマスまでまだひと月あるが、相変わらず小売業界は気が早い。欲しいものを用意するのではなく、欲しいものを作り出すのが彼らの仕事だ。

 三島は、この百貨店のトレードマークでもある正面玄関横に飾られた雀の一家の青銅像の隣で待っていた。一度自宅に戻ったのか、重い仕事鞄は持っておらず、服装もスーツではなくウールコートにジーンズ、それらにスニーカーを合わせたラフなものに変わっている。

 加々見先生、と片手を浮かせ、三島は先に店内で確保したらしい謎解きイベントのチラシを笑顔で掲げた。

「イベントのスタート地点は五階みたいです。行きましょう」

「はいはい、行こう。賑やかだね」

 福来屋(ふくらや)日本橋本店のオープンは、大正初期に遡る。都市経済学を専門とする吉晴は、過去に東京駅周辺の経済圏を調査したことがあり、その際に福来屋日本橋本店についても簡単な来歴を押さえていた。いわゆる洋風建築に東洋の意匠を施した和洋折衷建築で、大理石貼りの壁とまるで逆さに吊るした百合の花束のような形状のシャンデリアがレトロかつ高級感のある空間を作り上げている。ただ、建物は第二次大戦中に空襲で全焼し、建て直されたはずだ。その後も幾度かの増改築が行われている。

 黄金色のツリーが輝くエントランスホールを抜け、吉晴は三島のあとに続く形でエスカレーターに乗った。五階の子供服売り場を目指す。

「スタートが子供服売り場ってことは、本来は子供向けの謎解きイベントなのかな」

 低い位置で髪が結ばれた三島の後頭部に話しかける。三島はチラシを確認して答えた。

「スタートは五階だけど、五階から屋上庭園まであちこちに謎がちりばめられているみたいです。推奨年齢は小学校中学年以上なので、完全に子供向けというわけでもないのかなと」

「なるほど」

「百貨店、あまり来ることがないんでちょっと緊張します」

「あれ、そうなの?」

「年配の上品な人が来る場所のイメージがあって……あけすけにいえば、お金持ちしか来ちゃいけない場所、みたいな。だってもう、建物の雰囲気からしてゴージャス! 貧乏人お断り! みたいな感じじゃないですか」

「そんなことはないよ。むしろ若い人にいかに来店してもらうかが今の課題なんじゃない? この謎解きイベントも、そのつもりでやってるんでしょう」

「えー……じゃあ、店員さんに『うわ、あの子場違いだな』とか思われてないんでしょうか」

「ないよ。ないない」