どれほどつらかったか、いまならわかる

それから長い時が流れた。私は40代になり、2人の娘を育て、パートもはじめ、充実した毎日を送っていた。

そこに一通の封書が届いた。差出人は北陸地方の役所の福祉課。あなたの母であるMさんが生活保護を受けています、ついては援助は可能か、といったような内容だった。手紙の隅に、Mさんは病気で仕事ができず、困窮されています、と小さな添え書きがあった。

胸が押し潰されそうだった。なにかしてあげたい。あなたを拒んだ私を許してほしい。意に沿わず子どもを置いて家を出ることがどれほどつらいか、どんなに会いたかったか、いまなら私もわかります。

その日から、私は手紙を送り続けた。家族、私の仕事、兄のこと。手紙で何度も「お母さん」と呼んだ。何通も送ったが、封筒に姓と住所を記すことはしなかった。長年の怯えが、私を臆病にしていた。

そんな一方的な手紙でも、母は私を心の支えにしてくれていたと思う。ポストをあけて手紙が入っていたときの喜ぶ顔が、私には見える気がした。そして母に対する思慕が心のなかで満杯になったとき、ついに私は電話していた。もう気持ちの高ぶりを抑えることができなかった。

「りかちゃん? 本当にりかちゃん?」

何度も確かめて、生きていてよかった、と言った母。私は遠い昔、書いたのに送らなかった手紙のことを詫びた。30年の時を超えたぎこちない会話のなかで、母は遠慮がちに私の娘たちのことを「子どもさん」と呼んだ。

「ここらへんは梨が名産で。送ってあげようと思うけれど、なかなかできなくて」

母の気持ちが嬉しくて。だけど、送ってもらったって、もったいなくて食べられないじゃないですか。それにお金は自分のために使ってください。そんな言葉にならない言葉を胸に、「ほしいものはなにもないんです」と言った。

こうして同じ時を生きているだけで満足だった。母とのやりとりを一言一句忘れないでおこう、と思った。