私は息を呑んだ。なぜ気付かなかったのか。とっくに歯車は狂っていたのだ。
「一目惚れだったの。毎日、ずっと霧さんのことばかり考えてるの。好きでたまらないの。……ねえ、お母さん。霧さんと別れて私に譲って。お願い」
麻子の眼が食い入るようにこちらを見つめている。私はぞっとしながらも、懸命に落ち着こうとした。
「霧さんは物じゃない。別れたからといって霧さんの心があなたに向くとは限らない」
「そんなのやってみないとわからないじゃない。お母さんは好きなことをやれ、って私に言った。今さら、また我慢させるつもり?」
「好きなことをやれとは言ったけど、まさか霧さんのこととは思わなかった」
「お母さんの言うことは自分勝手。綺麗事ばっかり、自分に都合のいいことばっかり。結局、私はいつも我慢させられる。ねえ、お母さんはお父さんとなぜ結婚したの? 好きだったから?」
「ええ、そうよ」
「愛し合って結婚して子供を産んだってこと?」
「そう」
「若い頃にお父さんと愛し合って結婚して子供を産んで、歳を取ったら別の男と愛し合って結婚する。そういうことよね」
「ええ」
「二度もズルいじゃない。私なんて三十歳だけど仕事もないし、彼氏もいない。初めて本気で好きになった男は母親に反対される。どうして私ばっかり我慢しなければいけないの? 私ばっかり損をしなければいけないの? そんなの絶対におかしい」
麻子が立ち上がってベッドから降りると、私につかみかかってきた。私は部屋から押し出された。
「お母さんはズルい。損してるのは私だけ」
まるで悲鳴のようだった。これが麻子の本音なのか、と私は今さらながらに自分の行いを悔やんだ。今までずっと「いい子」でいた鬱屈が「ズルい」「我慢」「損」という言葉に集約されているのだ。私に麻子を咎める資格はない。
「麻子の願いを叶えてあげられるなら、お母さんはどんな努力だってする。なにもためらわない。でも、霧さんの気持ちは霧さんが決める。私がどうすることもできないの」
「だとしても、まずはお母さんが身を引いてよ。そうすれば、私が霧さんに愛されるように努力するから。愛してもらえるまでずっとずっと待つから」
「麻子、やめなさい。人の気持ちは思うようにはならないのよ。努力したから、待ったから、ってどうなるものでもないの」
「お母さんはよほど自信があるのね。霧さんに愛されるのは自分だけ。麻子なんて愛されるわけがない、って」
「そうじゃない。年齢を考えなさい。霧さんは六十前であなたは三十。年齢差は綺麗事では済まないの。愛があれば、ではやっていけないのよ」
麻子はしばらく黙っていたが、やがて吐き捨てるように言ったのだ。
「……なにが麻子の願いを叶えてあげられるなら、よ。結局、お母さんは口だけ。私のはじめてのわがままなのに叶えてくれない。自分のことしか考えてないから」
「違う。麻子、落ち着いて聞いて」
「もういい」
そう叫んで麻子は部屋のドアを乱暴に閉じた。何度も声を掛けたが返事はない。諦めて一階に戻るしかなかった。
それきり麻子は部屋から出てこなくなり、何日も口を利かない日が続いた。拗(す)ねて部屋に引きこもっている様子は愚かに見えるだろう。三十歳にもなってその態度はなんなのだ、と思われるだろう。
きっとその見方が正しいのだろうが、私は麻子の子供時代を奪った負い目がある。彼女の健全な成長を、人格形成の機会を損なったという自覚があるのだ。
でも、これは私と麻子の問題だ。霧を看取る。霧をこれ以上寂しくしない、と私は決めた。霧に余計な心配は掛けたくないのだ。
