60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。

         

 

「家のこともせずに遊び歩いて何様だ」

 見ると布団もシーツも濡れている。床に転がった介護用のマグは蓋が外れている。父が腹を立てて壁に投げつけたのだろう。

「麻子はなんだ。どんなに呼んでも来ない。おまえは一体どんな躾(しつけ)をしてるんだ。おまえが甘やかしたせいだ」

 何度この台詞を聞いただろう。百回? 千回? まったく同じことの繰り返しだ。父が入所を拒んで自宅介護が続く限り、この先も同じことが続いていく。 

 濡れた布団とシーツを替え、父を着替えさせた。いつもなら手伝ってくれる麻子は部屋にこもったきり、出てくる様子はない。機械的に父の世話を済ませると、私は麻子の部屋へ向かった。ノックをしたが返事がない。

「麻子? どうしたの?」

 声を掛けてもやはり返事はない。ふと蘭の予言が頭をよぎった。

 ――あんたの娘は自分を選んでくれなかったことを怨んで傷つき、立ち直るきっかけをなくして人生を駄目にしていく。

 入るよ、と声を掛けてドアを開けた。麻子はベッドの上にうずくまっている。膝を抱えたまま、涙で汚れた顔で私をにらんだ。

「私は子供の頃からずっと我慢してきた。一人で働いて、お祖父ちゃんの面倒を見ているお母さんに迷惑を掛けちゃいけないと思って。ずっとずっといい子でいようと頑張ってきた」

 思わずよろめいて一歩後ろに下がった。ぶつけられた言葉は現実に重みを持った、容赦のない打撃だった。

「なんで二回も結婚するの。私は一回もできてないのにお母さんだけズルい。お母さんだけ幸せになるなんてズルい」

 ズルい。それは麻子の口からはじめて聞く言葉だった。私は驚き、しばらくの間息ができなかった。

「私、霧さんが好きなの。はじめて好きになった人なの」