私は懸命に涙を拭いた。こんなことで泣いて大げさかと思われるかもしれない。でも、それは恵まれた日々を送っている人の考えだ。普段から生きて行くための言葉を聞いている人には、すべてを否定され続けてきた私たちの気持ちがわからない。
霧と出会って思い知らされる。自分がどんなに弱っていたか。どんなに磨(す)り減ってゴミになっていたか。
「麻子ちゃんには絶対に俺の病気のことを知らせないでくれ。彼女の気持ちを知った上で残酷なことを言うが……俺は最期のときには君にそばにいて欲しい。死ぬときは君と二人きりがいい。他の誰にもそばにいて欲しくない。麻子ちゃんには悪いが、最期の時間を邪魔されたくない」
高揚した心に冷えた刃が押し当てられたように感じた。二人きりで過ごしたあと、霧は死ぬのだ。真実を隠されていたと知ったら、麻子はどれだけ怨んで傷つくだろう。でも、私は霧の望みを優先したい。それが醜いエゴだとわかっていても、私は私だけの手で霧を送りたいのだ。
「ええ。話すつもりはない」
私たちは麻子を騙すことになる。でも、あの子はまだ若い。死を待つための愛よりも、もっとふさわしい愛の形があるはずだ。
「霧さんを看取ることは、私がようやく手に入れた人間としての権利なんです」
そうだ。あの家では誰も望んだ人生を生きていない。父も私も麻子も。
「思う存分、君の権利を行使してほしい」
霧がほっとしたように微笑んだ。その笑顔があまりに満ち足りていたので、私はつい「看取る」ということの意味を忘れそうになった。
霧を看取る。それは私にとっては幸せな権利だが、言い換えれば霧の命がすこしずつ消えていく日々を喜びとして享受することでしかない。死の恐怖を堪えて微笑む霧の前で、私は舌なめずりして歓喜している外道だ。
それでも私は決めた。もう後戻りはしない。私は望む未来を手に入れる。霧が幸せに死ぬ。それが、私の幸福なのだ。
