60歳を過ぎた木綿子は父の介護と引きこもりの娘の世話に日々追われている。不幸ではないが、いろんなものを諦めてきた人生だった。けれど、ひょんなことから知り合った2歳年下の男と出逢う。二人は互いに惹かれていくが……。遠田潤子さんが描く、静謐で過激な大人の恋愛小説。ぜひお楽しみください。

 

 雨彦は病室でコーチになるための勉強をはじめた。コーチ資格は一級から四級まであって、雨彦が前向きに頑張る姿に俺は安堵した。

 新しいペア捜しは難航した。あまりにも「霧雨コンビ」の息が合っていたため、みなが尻込みしたからだ。だが、俺は諦めなかった。雨彦に心配を掛けたくなかったからだ。あいつの考えていることは手に取るようにわかる。もし、俺が新しいペアを組まないなら、きっと雨彦は自分を責める。俺にできることはこれまで通りに振る舞うことだけだ。

 ようやく新しいペアが決まったとき、雨彦は本当に喜んでくれた。雨彦はとりあえず補助コーチとして大学に残ることが決まり、二人とも再出発することができた。

 雨彦のマンションでちょっとした祝賀会をした。ビールとピザという学生のような祝いだった。

「なあ、久しぶりに俺たちの試合のビデオ観ないか?」

 どきりとした。さすがにすぐにうんとは言えず、口ごもっていた。ちらりと美雨を見たがやはり困った顔だ。

「バーカ。なに泣きそうな顔してんだよ。研究、研究。俺はおまえらを世界に連れてくコーチになるんだから」

 そうだ。これからまたはじめるんだ。雨彦が前を向いている。俺も同じ方向を見るんだ。

「言うことがちっさいな。コーチで終わりじゃないだろ? おまえは日本代表監督になるんだろ?」

「そうだ」

 雨彦がにっと笑った。

「かんぱーい」

 すかさず美雨が盛り上げ、俺たち三人はビールを飲み干した。 

 中学総体、インターハイ、全日本。俺たちは懐かしい試合を観て、笑ったり、お互いのプレイに突っ込んだりした。

 美雨は嬉しくてたまらないのかはしゃいでいたが、早々に酔い潰れ、自室に戻って寝てしまった。俺たちは二人で飲み続け、リビングでいつの間にか寝てしまった。

 明け方、眼を覚ますと雨彦の姿がなかった。杖はリビングの床に転がっている。ベランダの窓が開いていた。

 一瞬で酔いが醒めた。俺はベランダに出て恐る恐る見下ろした。

 駐車場のアスファルトの上に捻(ねじ)れた人影が転がっていた。

救急車を呼び、エレベーターを待つ時間すら惜しく、階段を駆け下りた。ちょうど白々と夜が明けていくところだ。触れると、雨彦の身体にはまだ温かみがあった。俺は十年一緒に過ごした相手の割れた頭を見ていた。やがて救急車が来た。