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 私は半纏の前に座り込んだまま、長い間じっとしていた。

 明日の仕事のためにそろそろ寝なければ、と思うのだが身体が動かない。家の前の道路をバイクが走っていき、虫の声が一瞬止んだ。静寂に身がすくんだ。

 そのとき、気付いた。

 そういえば遺品に補聴器がない。瀬良が捨てるはずがないし、まさかそのまま火葬したとも思えない。白鳥蔵に残されているのだろうか。

 できたら手許に置きたい。「霧さんセット」に加えたい。

 明日にでも連絡してみよう、と思いながら立ち上がった。寝る準備をするために洗面所に向かう。

 洗面所の灯りはLEDだ。容赦のない露悪的な光を浴びせてくる。鏡を見てぞっとした。なにもかも喪った老婆ほど惨めで哀れなものはない。

 六十年生きていれば、身の回りで何人もの人が死んでいく。愛した者も、憎んだ者も、そのどちらでもない者も当たり前のように死んでいく。でも、死はありふれた事象のようなふりをして人を変えていく。若いときにはわからなかった。だが、陰毛に白髪の交じる今ならわかる。死が累積していくと人は鈍くなるのだ。

 あの頃、鈍麻した心を懸命に燃え立たせ、私と霧は愛し合った。心の奥深くにわずかに残った鋭敏な部分を互いに探りあてながら、恐る恐る先へ進んでいった。互いの罪を告白し合い、たるんだ身体を重ね合い、潤いを喪った性器のひりひりとした痛みに安堵しながら、自分たちの生を確認していたのだった。

 ふいに膝の力が抜けた。私は洗面台につかまったまま崩れるように膝を突いた。涙が溢れてくる。

 自分でもなにが哀しいのかわからない。心のどこが痛いのかもわからない。なぜ泣いているのかわからないから、涙の止めようがない。私は号泣し続けた。

 干涸びた身体のどこからこんなに涙が溢れてくるのだろう。今の私は穴の開いたザルだ。後悔も哀しみも喜びも、なにもかもだらしなく漏れていく。

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