ペリー再来航に備えて

ペリー再来航に備えて、老中首座阿部正弘は浜御殿の軍事化を進めた。

阿部は浜御殿を「校武場」(のちの講武場、講武所。軍事教練場)に改造する計画を海防掛目付岩瀬忠震(いわせただなり)らに命じた。

『小栗上野介-「逆賊」とされた開明派幕臣』(著:塚越俊志/中央公論新社)

阿部が示した検討の骨子は、浜御殿の南半分に幅一町半(160メートル強)、長さ三町(330メートル弱)の大砲操練可能な広場を造るため、泉水蓮池などを埋め、さらに周囲に上覧所、役人の詰所、庭西南隅には砲術演習のための土手などを設置するという計画であった。阿部は浜御殿を恒久的な軍事施設に転換しようとしたのである。

しかし、この計画は幕府内部の抵抗勢力などもあり、安政3年(1856)佐倉藩堀田家上屋敷を上知(召し上げ)して鉄砲洲築地に講武所を設立した。正式に浜御殿の軍事転用化が決まるのは、慶応2年(1866)であった(前掲『将軍の庭』)。