プチャーチンとの交渉
同じ頃、幕府はロシア使節プチャーチンと長崎で交渉した。全権の大目付格(大目付と同格の権限を持つ)筒井政憲と勘定奉行川路聖謨(かわじとしあきら)が交渉を引き延ばした。ロシアはイギリス・フランスなどとクリミア戦争を戦っており、プチャーチンは日本に来ては去るを繰り返しながら交渉をした。
プチャーチンの乗艦するディアナ号が大坂天保山沖に現れた時には、朝廷は危機感を覚えたが、日本側の説得によって、下田に廻航することになった。下田で再交渉を開始したが、安政南海トラフ地震の影響で大津波が起こって、ディアナ号は沈没した。
これを受け、戸田(へだ)(静岡県沼津市)で日露両国の共同作業による「ヘダ号」を建造し、ロシア人の一部はこの船を使って帰国した。別の船には日本から密航を果たした掛川出身の橘耕斎がいる(塚越俊志「掛川藩士橘耕斎の死にざま」)。この間、日露通好条約(日露和親条約)が締結された。この条約で、北方四島は日本領土となり、樺太の南半分は両国雑居の地となった。
安政2年(1855)7月、小栗は父忠高が病気との知らせを受けて暇を取り、24日、新潟に到着。28日、忠高の死が公表された。10月22日、跡目を相続し、小栗は又一と改名した。安政4年1月に使番となり、12月には布衣(ほい)(お目見え以上)となった。
※本稿は、『小栗上野介-「逆賊」とされた開明派幕臣』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『小栗上野介-「逆賊」とされた開明派幕臣』(著:塚越俊志/中央公論新社)
江戸幕府の末期を中枢で支えた幕臣、小栗上野介忠順。
幕府の命運に殉じた四二年の生涯。




