古関裕而(左)と西條八十(写真提供:古関裕而の長男・古関正裕さん)

軍歌を好まず、戦時歌謡を支持した大衆

霞ケ浦航空隊の事務室で教官たちに聞かせると、最初に作った長調の方が良いとの感想であった。

そのあとで校庭に約750人の生徒を集合させて、波平が長調と短調とを歌って聞かせた。長調の方が良いと挙手したのは10人程度、残り全員は短調を選んだ。

この結果、短調に決まった。軍の指導者と、予科練志願者(大衆)との音楽センスの差があらわれている。大衆が軍歌を好まず、戦時歌謡を支持するのも納得がいく。

汽車左から佐伯孝夫、飯田信夫、深井四郎。ホーム左から古関裕而、山田耕筰、小唄勝太郎、西条八十、江戸川蘭子(写真提供:古関裕而の長男・古関正裕さん)
古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル

霧島昇と波平の歌唱による「若鷲の歌」は、昭和18年9月に発売された。短調であるが、付点音符が多くテンポが遅くないため悲壮感はない。

この裏面の「決戦の大空へ」は、力強くも軽快で明るいメロディーであった。これを吹き込むため、藤山一郎は慰問先の南方のスラバヤから帰国している。ある予科練出身者は、「南方にいるときに、レコードがきて、もう一つの「決戦の大空へ」のほうがいいと、先輩は、みんないうんですよ」と回想している。

しかし、後年に「決戦の大空へ」は忘れられ、「若鷲の歌」は霧島昇の代表的な戦時歌謡の一曲となった。「若鷲の歌」は、昭和19年8月31日までに23万3000枚を売り上げている。戦局が厳しくなるなか、驚異的な数字である。列車のなかで浮かんだ短音階は、日中戦争下の「露営の歌」に続き、アジア・太平洋戦争下の「若鷲の歌」という、傑作を生み出した。

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