イラスト:川原瑞丸
ジェーン・スーさんが『婦人公論』に連載中のエッセイを配信。今回は、「後期高齢者の親をもつ世代が等しく抱えている」後ろめたさについて――(文=ジェーン・スー イラスト=川原瑞丸)

後ろめたさの理由

都内でひとり暮らしをする82歳の父親のために、家事代行サービスを探すことになった。

探すだけでなく、費用まで負担してさしあげる。本当によくできた娘さんだと、我ながら思う。

……というのは虚勢で、本心では、私が父の身の回りの面倒をみるべきなのではと、後ろめたい気持ちでいっぱいだ。これまで私は、「父の人生は父の人生」と、彼の人間関係を静かに見守るテイで、他人の厚意に甘えていただけだ。「よくできた娘さん」にはほど遠い。

この手の後ろめたさは、後期高齢者の親をもつ世代が等しく抱えている。「ずいぶん白髪が増えたね」から始まった、目に見える親の老化現象。あれは何年前のことだったろう。いま思えば、あんなのは老化のうちに入らなかった。

記憶力の低下ぐらいならまだ笑ってごまかしていられたが、足元がおぼつかなくなると、不安は一気に加速する。「まだまだ元気だよ」なんて親への励ましの言葉は、実は自分を説得するためだった。見て見ぬふりをし続けるのが難しくなったのは、父が80代に入ってからだ。いや、実際に外出先で会う限り、元気は元気なのだが。

父は、まだ要支援認定の申請をしていない。そう遠くはない未来、必要になってくるだろうとも思う。とは言え、この手の家事代行サービスは公的支援で賄えるものではない。各社のウェブサイトを見る限り、公的にはカバーできない部分を請け負うものばかりだ。父には長生きしてほしいが、私はいつまで独身の特権で貯めたお金で父を甘やかしていられるだろうか。

父の生活を、明るくつつがなく回すためのサービスを探しているというのに、決して明るいとは言えぬ未来が、ハッキリとした輪郭をもった「現実」となって私に迫ってくる。胸が押しつぶされるようで、やや息苦しい。