ガンと闘いながらの『孔子』の執筆
昭和63年7月、新たに肺にガンが発見され、コバルト照射による治療を受けるため一週間入院をした。この時も前の入院の時と同様に、個室の中に小さな書斎が作られ、連載中の『孔子』を書くのに一所懸命であった。不思議なことに抗ガン剤や照射による治療をしているのに、父はすこぶる元気だった。本人の持っている体力と、観音様に守られているお蔭としかいいようがない。
まさにガンと闘いながらの『孔子』の執筆であった。連載を少し読んで、「お父さん、むずかしくてよくわからない。もう少しやさしく書いたら」と言うと、「少数の人に読んでもらえばいいんだよ」と言っていた。
単行本にして出すときも、数千部も売れればよいと考えていたようだが、これが数カ月にわたりベストセラーの上位を占めると、「思いがけないことが起こるんだね」と本当にうれしそうだった。
毎年8月1日には郷里の伊豆湯ヶ島ヘお盆のお墓まいりに行くのが、永年の慣わしである。都合のつくかぎり家族も加わり、毎夏の一つの楽しみであった。
昨年のお墓参りは、父にとって体力の限界を試すための挑戦でもあった。お墓は小さな山のいただきにある。二歩登っては休み、三歩登っては休む。かろうじて足を前に運んでいる状態で、それは山を登るなどという言葉では表せるものではない。手を貸そうとしたが、一切受け付けない。すさまじいお墓参りになった。
コバルト照射のため片肺が駄目になっており、呼吸能力の低下による体力の衰えをまざまざと見てしまった。
昨年までの父ならば、後から登ってくる母を振り返り、待つフリをして実は自分も時々休み、村人や一族のものを引き連れた賑やかなものだった。
「最後のお墓参りだね」と、父は言った。思うに、このお墓参りに父は、自分の余命を測ろうとしていたのかもしれない。私はこの父の必死な姿を見て、何も言葉が出なかった。