苦しそうな息づかいのまま、自分の書斎を片づけ始めた
父は私が見てどんなにつらいだろうなと思う時でも、決して弱音を吐くことはしなかった。若い時代に小説の締切に追われて苦しそうにしている時も、ガンが発見された時も、照射治療の時も。そんな時、何か言おうとすると「いや俺は大丈夫だよ」と必ず先に言う父だった。
しかし、勘のするどい父のこと、これを期に生命の限界を感じ、改めて天命を知ったかのように思えた。秋も深まる頃には、外出も余りできなくなり月二回の定期検診に行く車の中で、ふと窓の外を見やっては、「ああ、きれいだねえ、この木は」と今にも落ちんばかりになっている紅葉を見つけては、誰に言うともなく言っている。
私は父と並んで座っていて、いたたまれなかった。涙がにじんでくるのに耐えながら、「そうねえ」と実にそっけなく返事をしていた。今までの父ならば、しみじみと「紅葉がきれいだね」などとは絶対に言う人ではなかった。
夏の青葉を「美しい」と言っても、枯れかかった紅葉などに目を留めることはなかったのに。
12月に入ると父の体が一日、一日と弱ってくるのがわかった。若い頃から父は、正座して机に向かっていたのだが、急に肉が落ちたせいだろう、「尾てい骨が痛い」とつぶやくようになる。でも、体力の消耗を案じて、横になることをすすめても、決して受け付けようとしなかった。
父の看病をしていたある夜のこと、苦しそうな息づかいのまま、自分の書斎を片づけ始めたのに気がついた。なんともいえず淋しそうに私の目には映った。
「お父さん、手伝わせて」
「いや、俺は何もしていないよ」
そう言いながら一所懸命片づけていた。お正月には、家族一人一人にひそかに別れを告げていたのだろう。私や私の息子に万年筆を渡して、「これからは素人がものを書く時代だよ、何でもきちんと記録しておきなさい」と言っていた。
1月22日の夕方、父は救急車に乗るために苦しい息の中、書斎から玄関ヘフラフラ歩いて行った。途中、いつも座っていた応接間のソファにフッと腰かけようとしたのを、救急隊員の人にせかされて、残念そうに思いとどまった一瞬の姿が目に浮かぶ。
この世田谷の家に移って30年余りの歳月を、毎日毎夜のように、大勢の客人に囲まれて、賑やかに語っていた父。大好きな河井寛次郎の壺や須田国太郎のバラの絵と別れを惜しむためにも、そこで一息ついてから病院に行きたかったのに違いない。
一週間後に、遺体となって父は帰って来た。父の最も愛したこの部屋で通夜と葬式を行い、最後のお別れをさせてあげた。