八塔寺山からの眺め。遠くに四国の山並みが見える(写真提供:末井さん)

ようやく本気になって墓を作ろうと思った

翌日、車でぼくの家があった場所に行きました。車から降りて、周りの山々を見回していた美子ちゃんが、突然、「サルじゃない…」と言いました。サルはひどいと思いませんか?

墓地は家があった所から少し歩いて、小高い山を登ったところにあります。町のスーパーで買ったシキビと花を持って墓地に行くと、びっくりするぐらい綺麗になっていました。親戚が来て草むしりや掃除をしてくれたのです。母親の墓と、祖父、祖母の墓にシキビと花を供えました。

母親の墓に手を合わせていると、美子ちゃんが「これじゃあ可哀想じゃない?」と言いました。「そうかなあ」と言うと、「だって、お母さんのことを書いて本にもなってるじゃない」と言います。確かに母親のダイナマイト心中は、ぼくが世に出る力を与えてくれたと思います。そうであれば尚更、母親のために墓を建てなくてはいけないと思ったものの、そういうことは億劫なもので、何もしないまま3年が過ぎました。

3年後の2000年春、再び「八塔寺ふるさと村」に行った時、母親の伯母さんに当たるお婆ちゃんの家に寄って、墓を作ろうと思っていることを話しました。母親の墓を建てることを一番喜んでくれるのは、母親と縁が深かったこのお婆ちゃんです。母親が愛人とダイナマイト心中した時、現場検証に来た警察官が、ここで死体を焼くことは許されないと言うと、お婆ちゃんは「じゃあ、私が持って帰る」と言って、家から桶を持って来て、散らばった肉片を集めていたと聞きました(それを見て、警察官はその場で荼毘に付すことを黙認したそうです)。母親の肺結核が悪化して町の病院に入院した時、ぼくを1年ほど預かってくれたのもお婆ちゃんでした。

お婆ちゃんは84歳になっていました。墓を見てもらうには、早くしないといけません。お婆ちゃんに会って、ようやく本気になって墓を作ろうと思ったのでした。

石材店のことやお寺さんのことなどは、お婆ちゃんの長男が手配してくれました。そして3ヵ月後に墓石が出来上がりました。母親の墓石だけという訳にもいかないので、父親と義母の墓石も作りました。

その墓石を建てる前に、現在ある墓の性根(しょうね)を抜かなければなりません。性根というのは魂のことで、元の墓に宿る魂をとりあえず抜いておいて、墓石の工事が終わったら新しく魂を入れるということです。それはお坊さんの仕事なので、吉永町の松本寺に頼みました。