『近松物語』(1954年)撮影時のひとこま。溝口健二監督と(協力:国立映画アーカイブ)

40代後半で感じた迷いをふっきって

3年後に帰国してからは、夫の両親と同居して、しばらくは家事や子育てに支障のない範囲で仕事を続けていました。NHKの朝ドラ『水色の時』に出演していた時、子どもたちはまだ小学生。

姑と同居しているとはいえ、子どもの世話は私の責任ですからね。買い物リストや食事のメニューをすべてメモに書き出して、お手伝いさんに渡してからスタジオに出かける毎日。セリフを覚えるより、こっちのほうがよっぽど大変だと思ったくらいです。(笑)

夫や姑には、きっと不満もあったでしょう。でも、試行錯誤しながら役を創り上げていくのはやっぱり楽しい。それに、みんなで力を合わせてひとつの作品を創り上げていく現場の空気が何よりも好きなんですね。

とはいえ、40代後半から50代の一時期は「もう、やめようかな」と悩んでいたこともありました。当時は女優として年齢的に難しい時期で、私のもとにお話が来るのはすべてお母さんの役。それも、娘に「お見合いしなさい」って言うような、個性のない、いわゆる昭和のお母さん。毎回ステレオタイプなお母さんを演じなきゃいけないのがつまらなくて。

そんな迷いがふっきれたのが熊井啓監督の『式部物語』で、初めて老け役を演じた時でした。九州の片田舎で生きる老女の役で、息子を演じたのは奥田瑛二さん。59歳という自分の実年齢より老けて見えるよう、メイキャップにも苦労しましたけど、ぜんぜん違う役をやらなきゃダメだと考えていた当時の私の心境にピッタリだったんですね。

この映画の撮影を終えた時、長いトンネルを抜けたような感じがしたんです。これからは自分が本当にやりたい仕事だけをしていけばいいんだと、再び楽しい気持ちで仕事にも向き合えるようになりました。