家の《ゲタ》に吊るされたヌートリアの皮。ヌートリアも唐揚げなどにして食す

食べるとは命をいただくこと

すきま風がひどいので、夫は自力で薪ストーブを設置。傾斜地に家が張り出しており、隣り合う家がないからこそ、煙突から煙を出すことも可能なんですね。家の下の斜面はうっそうとした木に覆い尽くされており、畑仕事を楽しめる場所もありました。

家の脇にウッドデッキを設置したので、運び込まれた獲物には解体までの一晩、そこでお休みいただきます。デッキでは食事も楽しめるし、ストーブにくべる薪割りもできる。資産価値ゼロと思われた家ですが、暮らしの可能性は思いのほか広がった。またもや、夫の思惑通りになりました。(笑)

夫が猟をはじめるまで、自分が普段食べている「肉」と「生きものの死」が結びつくことはありませんでした。でも、それは目を背けていただけなんですよね。死んだ動物を持ち帰られ、目の前に吊るされれば、いやでも向き合わざるを得なくなる。獲物を心待ちにしながら、「あ、私が楽しみにしているのは、生きものの死だ」とハッとすることもありました。

スライスしてパックされた肉はとてもきれいで、命が見えません。食べれば、どれも均一な味わいです。でも、野生の動物だとそうはいかない。若いか老いているか、なにを食べてきたか、獲られる直前のストレスの有無などで、味にものすごく個体差が表れるんです。だから、食べることの大切さが身に沁みます。野菜も手をかけて育てますし、ほかのお子さんたちにも「命をいただいている」という経験をしてほしいな、と思うようになりました。

波瀾万丈な結婚生活も、20年を超えました。周囲からは「文祥さんに振り回されているのに、えらい」などと言われますが、それもちょっと違うような気もします。

確かに、常識や世間体、社会システムを疑って生きる夫に合わせていたら、いつのまにかこんな生活になっていただけですが、夫といることで、本来の生きものの暮らしとはなにか、大自然とは命そのものではないか、ということを考えられるようになりましたから。

まあ、夫が「オレはこういう暮らしが楽しいって最初からわかっていた。君は『ありえない』って言ってたけどね」と上から目線のところは、いまもちょっと腑に落ちませんが。(笑)