(左から)郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎の「新御三家」は、若い女性を中心に絶大な人気を誇った(1974年撮影)
音楽プロデューサーとして半世紀以上活躍し、錚々たる大スターたちの楽曲を手掛けてきた酒井政利さん。このほど、その長年の業績を称えられ「文化功労者」に選出されました。酒井さんが、今もなお歌い継がれる昭和歌謡の魅力、スターたちの知られざる一面を語るインタビュー後編は、メディア戦略、ジャニーさんとの出会い、新御三家の誕生について……(構成=丸山あかね)

〈前編〉山口百恵をアイドルに。伝説のプロデューサーが明かす秘話

メディア戦略、アイドル戦略…

私が1964年に挑んだ、小説『愛と死をみつめて』を歌にしたことから始まる売り出し方は、後にいうところの「メディア戦略」。歌謡曲をドラマや映画の主題歌や挿入歌、またはCMソングとして流し、ヒットの相乗効果を狙う路線は、たちまち軌道に乗りました。

そして、南沙織さんや山口百恵さんなどを育てた「アイドル戦略」。さらに、「雨がやんだら」の朝丘雪路さん、「同棲時代」の大信田礼子さん、「他人の関係」の金井克子さんらの、大人の恋を歌いあげる「再生路線」の成功もあり、私の音楽プロデューサーとしての人生は順風満帆に近かったと思います。けれど年を経るにつれ、「もっと新しいことができるはずだ」と焦燥感に駆られるようになりました。

そんな私のもとへ広告会社から電話がかかってきたのは、77年5月のことでした。「3週間、南太平洋の旅に行きませんか?」というもので、電通が企画し、資生堂とワコールがスポンサーにつく。作詞家の阿久悠さん、版画家の池田満寿夫さん、イラストレーターの横尾忠則さんらが参加予定だと聞いて、無理を押してでも参加しようと決意しました。

旅先では見るもの聞くものすべてが新鮮で、メンバーのみなさんから刺激を受け、創造力が磨かれる。実際、帰国後は不思議なくらいひらめきに恵まれたのです。資生堂のイメージソングの依頼を受けた時には、旅行中に誰かが言った「まるで時間が止まっているようだ」という言葉がスッと降りてきた。