乃蒼は二十一時には寝た。
夕ごはんは、ホテルにチェックインする前にコンビニで買ったサトウのごはんを小さな冷蔵庫の上にのっている電子レンジで温め、納豆を混ぜて食べさせた。新幹線でのおやつの残りのバナナも食べた。
お風呂は、知らないお風呂だったからか、ずっと泣いていた。
明かりを落とした部屋で、絵本やぬいぐるみがすでに散乱しているベッドの上で、哺乳瓶を小さな両の手でしっかりとつかんでミルクを飲み、家から持ってきたお気に入りの枕を抱きしめるようにして乃蒼が眠りに落ちてから、私は部屋の隅の簡易照明のプラグを再びコンセントにさし、明るさを足した。
大きめのシングルベッド二つ分の空間は充分な広さだったけれど、寝ている間に乃蒼はぐるぐる動くので、分厚い掛け布団を一枚ソファーとベッドの間に敷き詰め、ベッドから落ちた時の対策をした。
案の定、一時間も経たないうちに何回かの寝返りでベッドの端に到達した乃蒼は、脚からベッドの下にずるずるとスローモーションで落ちていきかけたが、本能的にシーツをつかんだおかげで、頭だけはまだベッドの上にある状態で私に救出された。当人はずっと寝ていた。
乃蒼を抱きかかえてベッドの真ん中に戻し、これも持参したフリースのブランケットをかけ直し、整えた。
乃蒼の横でホテルのぱりっとした枕にもたれるようにして深く座り、心置きなくスマートフォンの液晶画面に見入った。私がスマートフォンを取り出すと、電車の動画を見せてもらえると興奮した乃蒼が私の体にのしかかってきて、見せてもらえないとわかるとアッ、アッ、と抗議の声を上げ、最終的にぐずるので、乃蒼が寝ている間しか安心してスマートフォンを見ていられない。
新しいLINEは子ども服のブランドの宣伝アカウントからのみ。
夜にチェックインしたらしい若い男たちの騒ぐ声が隣から聞こえる。
三、四人はいそうだ。声しか聞こえないのに若い男だとわかるのも考えてみれば不思議だが、何がそんなにと訝しくなるほど楽しそうに騒いでいて、声が軽くて、やはり若い男たちだった。
目を覚まさなければいいがと乃蒼をちらっと見るが、まったく意に介さないように、ぐっすりと眠っている。子どもが眠る姿は、あまりにも眠ることに真摯で、まっすぐで、ほかに何もなくて、目を奪われる。夜中に乃蒼が泣き出す可能性を考えると、隣がうるさいぐらいのほうが、気が楽な気もした。そっちもうるさかったのだから、こっちのうるささも受け入れてほしい。
私が眠った後、万が一乃蒼が起き出して、勝手に入り口側の部屋に行かないように、寝る前にトイレに行ってから、私はスーツケースを引き戸にかませ、つっかえ棒のようにして、開けられないようにした。
知らない街でベビーカーを押していると、日常と非日常の隙間に落ち込んだような気がする。
乃蒼はどう思っているだろうか。
横から覗き込むと、前を向いている乃蒼の頬が際立っていた。
一歳半の乃蒼はまだ話せない。音で話し、指をさし、世界に小さな跡をつける。
散歩がてら朝から、卵アレルギーの乃蒼が食べられる、卵の入っていないパンを探した。
パン
大通りに出てから、そうグーグルマップに打ち込むと、即座にオレンジ色のマークがいくつも画面に現れる。
今いる場所から近いところにあるパン屋をいくつか回り、卵の入っていないパンをいくつか確保する。
多くのパン屋が、店に並んだパンの前にそれぞれ置かれたプレートの、パンの名前の下に小さく原材料名を書き添えていることに、乃蒼が少し大きくなってパンを食べられるようになるまで、私は気づいてもいなかった。それまでの私にはいらない情報だったのだ。時々、自分が気づかなかったことの多さにハッとするが、じゃあどうだったらよかったのか考えると、それもよくわからない。
大きな赤い鳥居のある神社の近くにある公園で、ベビーカーに座らせたまま、小さくちぎったパンを乃蒼に食べさせ、持ってきた小さなパックのりんごジュースを飲ませた。バナナも。おいしいらしく、リスのように頬をふくらませ、次々と口の中に入れたがるのを制し、かわりに私がパンの一欠片を口に含むと、口の中にふわっとした味と感触が広がる。確かにおいしいパンだった。
乃蒼がりんごジュースのパックをこっちに押しつけてくるので、受け取ると、口の力をまだコントロールできないせいで、ストローはすでにぺしゃんこ。まだ半分くらい中身が残っている。ストローを深く刺し直し、角度を調節して渡すと、真剣な表情でまた飲みはじめた。
ベビーカーから降ろしてやると、乃蒼は迷わず駆け出した。
ぐらぐらと前後に揺れるくじらに乗り、ライオンに乗り、滑り台を何周かし、ブランコをなで回し、落ち葉の感触を確かめながら踏みしめ、地面の上に蛸の足のようにうねうねと盛り上がった木の根の上を歩き、ベンチの上を歩いてようやく、乃蒼は私に抱っこさせてくれた。
自動販売機の近くに置いていたベビーカーに戻ろうとすると、いつの間にか、砂場にカーキ色のジャンパーを着た、乃蒼より少し大きく見える子どもと、母親らしき女性がしゃがみ込んでいる。
ずり落ちそうになっている乃蒼を抱えながら近づいていく私に気づくと、彼女はじっとこっちを見ている。公園には彼女と私しかいなかった。
私はその目をよく知っていた。話せる人を、言葉を交わせる人を、探している目だ。いつもの公園で、私も何度もその目をしていた。話したいことなら私もあった。
でも、彼女も私もマスクをしていて、まだマスクができない子どもと一緒で、私は知らない街にいて、ベビーカーに向かって歩いていた。
砂場の横を通り過ぎた。
ベビーカーに乃蒼を乗せると、いい具合に疲れたのか、日によってはまだ遊びたいと抵抗することもあるのに、今はベルトをさせてくれた。