婦人公論

この記事は広告を見ると
ご覧いただけます

続けて記事を読む
元のページに戻る
婦人公論
  • 最新号
  • アンケート・投稿
  • 定期購読
  • プレゼント
  • 会員登録
  • ログイン
会員限定 ランキング 芸能 読者手記 介護 お金 人間関係 漫画 レシピ 健康 美容 性愛 教養 占い 小説 連載
  • TOP
  • 教養
  • 松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』より一話を特別配信!
2021年04月13日
教養 寄稿

松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』より一話を特別配信!

松田青子 作家
×

会員限定の機能です。
詳細はこちら

印刷
X
Facebook
子育て 作家 推し本 松田青子

 

 乃蒼は二十一時には寝た。
 夕ごはんは、ホテルにチェックインする前にコンビニで買ったサトウのごはんを小さな冷蔵庫の上にのっている電子レンジで温め、納豆を混ぜて食べさせた。新幹線でのおやつの残りのバナナも食べた。
 お風呂は、知らないお風呂だったからか、ずっと泣いていた。
 明かりを落とした部屋で、絵本やぬいぐるみがすでに散乱しているベッドの上で、哺乳瓶を小さな両の手でしっかりとつかんでミルクを飲み、家から持ってきたお気に入りの枕を抱きしめるようにして乃蒼が眠りに落ちてから、私は部屋の隅の簡易照明のプラグを再びコンセントにさし、明るさを足した。
 大きめのシングルベッド二つ分の空間は充分な広さだったけれど、寝ている間に乃蒼はぐるぐる動くので、分厚い掛け布団を一枚ソファーとベッドの間に敷き詰め、ベッドから落ちた時の対策をした。
 案の定、一時間も経たないうちに何回かの寝返りでベッドの端に到達した乃蒼は、脚からベッドの下にずるずるとスローモーションで落ちていきかけたが、本能的にシーツをつかんだおかげで、頭だけはまだベッドの上にある状態で私に救出された。当人はずっと寝ていた。
 乃蒼を抱きかかえてベッドの真ん中に戻し、これも持参したフリースのブランケットをかけ直し、整えた。
 乃蒼の横でホテルのぱりっとした枕にもたれるようにして深く座り、心置きなくスマートフォンの液晶画面に見入った。私がスマートフォンを取り出すと、電車の動画を見せてもらえると興奮した乃蒼が私の体にのしかかってきて、見せてもらえないとわかるとアッ、アッ、と抗議の声を上げ、最終的にぐずるので、乃蒼が寝ている間しか安心してスマートフォンを見ていられない。
 新しいLINEは子ども服のブランドの宣伝アカウントからのみ。
 夜にチェックインしたらしい若い男たちの騒ぐ声が隣から聞こえる。
 三、四人はいそうだ。声しか聞こえないのに若い男だとわかるのも考えてみれば不思議だが、何がそんなにと訝しくなるほど楽しそうに騒いでいて、声が軽くて、やはり若い男たちだった。
 目を覚まさなければいいがと乃蒼をちらっと見るが、まったく意に介さないように、ぐっすりと眠っている。子どもが眠る姿は、あまりにも眠ることに真摯で、まっすぐで、ほかに何もなくて、目を奪われる。夜中に乃蒼が泣き出す可能性を考えると、隣がうるさいぐらいのほうが、気が楽な気もした。そっちもうるさかったのだから、こっちのうるささも受け入れてほしい。
 私が眠った後、万が一乃蒼が起き出して、勝手に入り口側の部屋に行かないように、寝る前にトイレに行ってから、私はスーツケースを引き戸にかませ、つっかえ棒のようにして、開けられないようにした。


 知らない街でベビーカーを押していると、日常と非日常の隙間に落ち込んだような気がする。
 乃蒼はどう思っているだろうか。
 横から覗き込むと、前を向いている乃蒼の頬が際立っていた。
 一歳半の乃蒼はまだ話せない。音で話し、指をさし、世界に小さな跡をつける。
 散歩がてら朝から、卵アレルギーの乃蒼が食べられる、卵の入っていないパンを探した。
 パン
 大通りに出てから、そうグーグルマップに打ち込むと、即座にオレンジ色のマークがいくつも画面に現れる。
 今いる場所から近いところにあるパン屋をいくつか回り、卵の入っていないパンをいくつか確保する。
 多くのパン屋が、店に並んだパンの前にそれぞれ置かれたプレートの、パンの名前の下に小さく原材料名を書き添えていることに、乃蒼が少し大きくなってパンを食べられるようになるまで、私は気づいてもいなかった。それまでの私にはいらない情報だったのだ。時々、自分が気づかなかったことの多さにハッとするが、じゃあどうだったらよかったのか考えると、それもよくわからない。
 大きな赤い鳥居のある神社の近くにある公園で、ベビーカーに座らせたまま、小さくちぎったパンを乃蒼に食べさせ、持ってきた小さなパックのりんごジュースを飲ませた。バナナも。おいしいらしく、リスのように頬をふくらませ、次々と口の中に入れたがるのを制し、かわりに私がパンの一欠片を口に含むと、口の中にふわっとした味と感触が広がる。確かにおいしいパンだった。
 乃蒼がりんごジュースのパックをこっちに押しつけてくるので、受け取ると、口の力をまだコントロールできないせいで、ストローはすでにぺしゃんこ。まだ半分くらい中身が残っている。ストローを深く刺し直し、角度を調節して渡すと、真剣な表情でまた飲みはじめた。
 ベビーカーから降ろしてやると、乃蒼は迷わず駆け出した。
 ぐらぐらと前後に揺れるくじらに乗り、ライオンに乗り、滑り台を何周かし、ブランコをなで回し、落ち葉の感触を確かめながら踏みしめ、地面の上に蛸の足のようにうねうねと盛り上がった木の根の上を歩き、ベンチの上を歩いてようやく、乃蒼は私に抱っこさせてくれた。
 自動販売機の近くに置いていたベビーカーに戻ろうとすると、いつの間にか、砂場にカーキ色のジャンパーを着た、乃蒼より少し大きく見える子どもと、母親らしき女性がしゃがみ込んでいる。
 ずり落ちそうになっている乃蒼を抱えながら近づいていく私に気づくと、彼女はじっとこっちを見ている。公園には彼女と私しかいなかった。
 私はその目をよく知っていた。話せる人を、言葉を交わせる人を、探している目だ。いつもの公園で、私も何度もその目をしていた。話したいことなら私もあった。
 でも、彼女も私もマスクをしていて、まだマスクができない子どもと一緒で、私は知らない街にいて、ベビーカーに向かって歩いていた。
 砂場の横を通り過ぎた。
 ベビーカーに乃蒼を乗せると、いい具合に疲れたのか、日によってはまだ遊びたいと抵抗することもあるのに、今はベルトをさせてくれた。

 

  • <
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • >
×

会員限定の機能です。
詳細はこちら

印刷
X
Facebook
ランキング
  • デイリー
  • ウイークリー
  • 1<八木さんを抱きしめてくれる人は…>『あんぱん』八木と蘭子のシーンに視聴者「まるで映画みたい」「八木を見つめるまなざしが変わった」「蘭子の額に手をあてる仕草は…」
    <八木さんを抱きしめてくれる人は…>『あんぱん』八木と蘭子のシーンに視聴者「まるで映画みたい」「八木を見つめるまなざしが変わった」「蘭子の額に手をあてる仕草は…」
  • 2『あんぱん』次週予告。嵩が原稿を投げ、蘭子と八木には距離が。にらみ合う登美子と羽多子。そして「ごめんなさい」と呟いたのは久々登場の…
    『あんぱん』次週予告。嵩が原稿を投げ、蘭子と八木には距離が。にらみ合う登美子と羽多子。そして「ごめんなさい」と呟いたのは久々登場の…
  • 3女性3人アポなしガチンコ旅『バス旅W』第6弾「長野県・車山高原~福島県・磐梯熱海温泉」が放送に。強敵・越後山脈へ挑むか迂回か。3人が選んだルートは…
    女性3人アポなしガチンコ旅『バス旅W』第6弾「長野県・車山高原~福島県・磐梯熱海温泉」が放送に。強敵・越後山脈へ挑むか迂回か。3人が選んだルートは…
  • 4川村エミコ×精神科医・Tomy「根っこにあるネガティブは幼少期の影響?」「生まれ変わっても、もう1度自分がいい?」
    川村エミコ×精神科医・Tomy「根っこにあるネガティブは幼少期の影響?」「生まれ変わっても、もう1度自分がいい?」
  • 5川村エミコ×精神科医・Tomy「必要とされたくて〈Yahoo!〉って呼ばれ…」「人間関係はビリヤードの玉のようなもの」<br />
    川村エミコ×精神科医・Tomy「必要とされたくて〈Yahoo!〉って呼ばれ…」「人間関係はビリヤードの玉のようなもの」
  • 6『あんぱん』脚本家の中園ミホをモデルにした役が登場?「やなせたかしさんとは、小学生時代から文通していた不思議なご縁。やなせさんの詩に救われて…」
    『あんぱん』脚本家の中園ミホをモデルにした役が登場?「やなせたかしさんとは、小学生時代から文通していた不思議なご縁。やなせさんの詩に救われて…」
  • 7言いたい放題だったけど…『あんぱん』のぶの少女時代を演じた永瀬ゆずなが嵩のファンの小学生役で再登場。視聴者「色紙をもらったときの輝く笑顔が印象的」「一人二役。演じ分けがすごい」
    言いたい放題だったけど…『あんぱん』のぶの少女時代を演じた永瀬ゆずなが嵩のファンの小学生役で再登場。視聴者「色紙をもらったときの輝く笑顔が印象的」「一人二役。演じ分けがすごい」
  • 8直木賞作家・皆川博子95歳「自由に書けるようになったのは、60代後半になってから。老人ホームに入居しても執筆を続ける、その原動力となっているのは…」
    直木賞作家・皆川博子95歳「自由に書けるようになったのは、60代後半になってから。老人ホームに入居しても執筆を続ける、その原動力となっているのは…」
  • 9教師とホストの純愛『愛の、がっこう。』第8話あらすじ。ホストクラブで傷害事件が起こったことを知り店へと走る愛実。カヲルから声をかけられるとその場で倒れてしまい…<ネタばれあり>
    教師とホストの純愛『愛の、がっこう。』第8話あらすじ。ホストクラブで傷害事件が起こったことを知り店へと走る愛実。カヲルから声をかけられるとその場で倒れてしまい…<ネタばれあり>
  • 10松たか子に翻弄され続ける阿部サダヲ『しあわせな結婚』ミステリーとコメディ、ホームドラマが融合した希少なドラマ。妻・ネルラの風評の悪さ、弟・レオの年齢に不審点も…
    松たか子に翻弄され続ける阿部サダヲ『しあわせな結婚』ミステリーとコメディ、ホームドラマが融合した希少なドラマ。妻・ネルラの風評の悪さ、弟・レオの年齢に不審点も…
  • 1『あんぱん』次週予告。「おなかをすかせた人にアンパンを配って回るんだよ」と嵩。イラストを見たたくやは「おじさんですね」と話し…
    『あんぱん』次週予告。「おなかをすかせた人にアンパンを配って回るんだよ」と嵩。イラストを見たたくやは「おじさんですね」と話し…
  • 2所ジョージが『ポツンと一軒家』で出会った老夫婦から考えたこと。「近頃みんな『考える』事をしなくなった。考えなくてもいいですよ!って便利なものが進んでいってるのもどうかと思う」
    所ジョージが『ポツンと一軒家』で出会った老夫婦から考えたこと。「近頃みんな『考える』事をしなくなった。考えなくてもいいですよ!って便利なものが進んでいってるのもどうかと思う」
  • 3<八木さんを抱きしめてくれる人は…>『あんぱん』八木と蘭子のシーンに視聴者「まるで映画みたい」「八木を見つめるまなざしが変わった」「蘭子の額に手をあてる仕草は…」
    <八木さんを抱きしめてくれる人は…>『あんぱん』八木と蘭子のシーンに視聴者「まるで映画みたい」「八木を見つめるまなざしが変わった」「蘭子の額に手をあてる仕草は…」
  • 4開成から東大理一、異端のピアニスト・角野隼斗「研究者ではなく音楽家の道へ。母や妹とはピアノの話で盛り上がって」【2025年上半期ベスト】
    開成から東大理一、異端のピアニスト・角野隼斗「研究者ではなく音楽家の道へ。母や妹とはピアノの話で盛り上がって」【2025年上半期ベスト】
  • 5所ジョージが辿り着いた<格差社会の原因>。「今やお歳暮やお中元も宅配便。私は目上の方に物を持って行くときには自分で行くし、持って行けない時には手紙を添えるとかしてますよ」
    所ジョージが辿り着いた<格差社会の原因>。「今やお歳暮やお中元も宅配便。私は目上の方に物を持って行くときには自分で行くし、持って行けない時には手紙を添えるとかしてますよ」
  • 6所ジョージ 映画の主人公がつけるような高級腕時計やモデルが持つブランド系のバッグや服。家で見ている分にはいいけど、それをつけて外に出たら…
    所ジョージ 映画の主人公がつけるような高級腕時計やモデルが持つブランド系のバッグや服。家で見ている分にはいいけど、それをつけて外に出たら…
  • 7岸田ひろ実「〈自分さえ我慢すれば〉は、周りの人も傷つけ不幸にする。ダウン症の息子、認知症の母、離れて住んで見えてきたのは」【『家族だから愛したんじゃなくて…』の岸田家母娘対談】
    岸田ひろ実「〈自分さえ我慢すれば〉は、周りの人も傷つけ不幸にする。ダウン症の息子、認知症の母、離れて住んで見えてきたのは」【『家族だから愛したんじゃなくて…』の岸田家母娘対談】
  • 8【娘のお金をアテにしないで】蓄えが無くお金を頼ってくる父。高額商品の購入を叱ると「年老いた父親をイジメるな」と言われて…【第5話まんが】【2025年上半期ベスト】
    【娘のお金をアテにしないで】蓄えが無くお金を頼ってくる父。高額商品の購入を叱ると「年老いた父親をイジメるな」と言われて…【第5話まんが】【2025年上半期ベスト】
  • 9『あんぱん』脚本家の中園ミホをモデルにした役が登場?「やなせたかしさんとは、小学生時代から文通していた不思議なご縁。やなせさんの詩に救われて…」
    『あんぱん』脚本家の中園ミホをモデルにした役が登場?「やなせたかしさんとは、小学生時代から文通していた不思議なご縁。やなせさんの詩に救われて…」
  • 10明日の『あんぱん』あらすじ。のぶと嵩は引っ越しをして羽多子と同居生活を始める<ネタばれあり>
    明日の『あんぱん』あらすじ。のぶと嵩は引っ越しをして羽多子と同居生活を始める<ネタばれあり>
もっと見る
MOVIE
ー 婦人公論.jp 公式チャンネル ー

編集部おすすめ
もうじきたべられるぼく特設サイト
最新号 好評発売中!
婦人公論最新号表紙
よく死ぬことは、よく生きることだから
最新号 次号予告 バックナンバー
発言小町注目トピ
  • 非常識な結婚式を欠席したいだけなのに
  • 思いやりがないのは私?妻?それとも?
  • 婚約、実家挨拶後に、気になる人ができたと言われた話
中央公論新社の本
52ヘルツのクジラたち
52ヘルツのクジラたち
町田そのこ 著
詳しくみる

インフォメーション

  • 作家・伊東潤さんと、呉市海事歴史科学館 館長・呉市参与・戸髙一成さんの対談イベント
    作家・伊東潤さんと、呉市海事歴史科学館 館長・呉市参与・戸髙一成さんの対談イベント
  • さかもと未明さんによる拉致問題解決を祈る連作絵画など展示『日本・フランス現代美術世界展』国内外の多彩なアートが集結
    さかもと未明さんによる拉致問題解決を祈る連作絵画など展示『日本・フランス現代美術世界展』国内外の多彩なアートが集結
  • 【編集部より】お詫びと訂正
    【編集部より】お詫びと訂正
  • 【編集部より】公式アドレスの不正利用について
    【編集部より】公式アドレスの不正利用について
インフォメーション一覧
婦人公論
  • 婦人公論とは
  • サイトポリシー/データの収集と利用について
  • 「ff倶楽部」会員規約
  • 「ff倶楽部」よくあるご質問
  • お問い合わせ
  • 広告掲載
婦人公論

CHUOKORON-SHINSHA,INC.All right reserved

ページのトップへ