婦人公論
  • 最新号
  • アンケート・投稿
  • 定期購読
  • プレゼント
  • 会員登録
  • ログイン
会員限定 ランキング 芸能 読者手記 介護 お金 人間関係 漫画 レシピ 健康 美容 性愛 教養 占い 小説 連載
  • TOP
  • 教養
  • 松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』より一話を特別配信!
2021年04月13日
教養 寄稿

松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』より一話を特別配信!

松田青子 作家
×

会員限定の機能です。
詳細はこちら

印刷
X
Facebook
子育て 作家 推し本 松田青子

 

 再びもたもたしながら、部屋に入った。
 乃蒼の靴を脱がし、帽子を脱がし、ジャンパーを脱がし、フリースのベストを脱がし、靴下を脱ぎたがったので、靴下を脱がした。乃蒼と私は、一日に何回も同じことをしている。そして手を洗う。
 乃蒼にごはんを食べさせ、お風呂に入れ、ミルクを飲ませ、ベッドの上で絵本を読んだ。ペンギンの親子が一緒にするのが好きなことをいくつも挙げていく絵本だ。
 読み終わると、もう一度と催促され、全部で五回読んだ。まだだめ、と、もういい、が唐突に来る。
 電車の絵本も読んだ。電車の写真が並んでいる簡単な図鑑みたいなボードブックは、乃蒼のお気に入りだ。ページに書かれている通りに、6000系、2100系などと読み上げていく。もうこれまでに百回以上は読んでいるはずなのに、どうしても覚えることができない。電車に名前があるなんて考えたこともなかった。
 知らない場所にいることがやはり影響しているのか、乃蒼は今日も二十一時には寝た。普段なら、日によっては、二十三時や日をまたいでしまう時もあるのに。
 ソファーにあぐらをかき、カップラーメンを食べた。
 乃蒼は家から持ってきたぬいぐるみや絵本に囲まれて眠っている。
 シーツの上に敷いた、家から持ってきた柔らかい緑色のブランケットはもみの木らしき木の柄で、偶然ホテルの部屋の壁紙も林の柄だったので、なんだか調和していた。白い壁に薄い灰色で描かれた木々は、細くて、枝にも葉っぱが一つもなくて、寒々しそうだった。
 林の上には、ホテルの部屋によくあるような額入りの絵のかわりに、大きな紫色の花が描かれた、軽い銅製の丸いプレートが二つ飾られていて、昨日は乃蒼が手を伸ばして何度か触ろうとしたので、落ちてきたら危険だと思い、取れるだろうかと裏側を確認してみたが、さすがにこれを取り外すのは気が引け、そのままだ。
 そこにあることに慣れたのか、乃蒼は、今日は一度も触ろうとしなかった。乃蒼が生まれてから、私はあらゆる物事が危険かどうかばかり考えている。乃蒼を基点にすると、恐ろしいことに、実際、あらゆる物事が危険なのだ。そして、実は、自分にとってもそうなのだと気づかされてしまう。乃蒼といると、人間の弱さを忘れることができない。
 隣が騒がしくなる。
 残念ながら、今夜も昨日と同じ宿泊客なのは聞こえてくる音の質から明らかだった。
 ほら、またうまくいかない。
 そう誰かに言われているようで、うまくいかないほうにまた一点足されたようで、その積み重ねで本当にうまくいかなくなるような気がして、部屋の隅っこで、ざらっとした素材のソファーの上で、麺をすすりながら、じんわりと暗い気持ちでいた。辛い味にすればよかった。刺激がほしかった。
 ガラステーブルの上で、LINEの未読数は相変わらず膨れ上がり続けていた。同様に着信も止まらなかったが、とっくにミュートにしていた。
 これには驚かなかった。そうするだろうと思っていた通りだった。
 乃蒼が触らないように、キッチンスペースの、シンクの下の棚の中に隠しておいた四十リットルのゴミ袋に、空になったカップラーメンの容器を捨て、戻った。
 ベッドに横になる。
 こうしていると、森の中の、このベッドの上だけが二人の居場所のように思えてくる。
 乃蒼のほうに体を向け、何かやらないといけないことがあったはずだと思いながらも、体が求めるままに目を閉じた。
 笑い声で目が覚めた。
 壁にがんがんと、おそらくベッドのヘッドボードが当たる音もする。
 はしゃいでベッドの上でぼんぼんと跳ねている子がいるようだ。さすがに十代ではないだろうから、子、と呼ぶのはおかしい気もしたが、物音から想像すると、脳裏に浮かぶのは幼さを残した高校生の男の子たちだった。正解は、大学生くらいだろう。クシャミ一つでさえ元気で、うるさい。
 突如として、学生の頃下宿していた奥に細長い、二階建てのアパートを思い出した。三月の終わり、新学期を迎える数日前、引っ越しの片づけも済み、何をしていたかは覚えていないが私が部屋で一人過ごしていると、隣の部屋で宴会がはじまった。私と同じように引っ越してきた男子学生が友人たちを呼んだらしかった。
 宴会は遅くまで続き、この調子の集まりを頻繁に開かれると困るなと私が感じはじめた頃、廊下をスリッパのような履き物で、シャッ、シャッと歩く音が近づいてきた後、
「○○さん、うるさいからそろそろやめような。ほかの部屋の人たちに迷惑だから」
 と大きな声がした。
 一階の一番奥の部屋に住んでいる大家の女の人の声だった。当時五十代くらいの、サザエさんかな、と思うようなパーマをかけ、エプロンをしている人だった。そして、確かにいつもスリッパみたいなつっかけを履いていた。
 それだけ言うと、彼女はまたスリッパの音を響かせ、遠ざかっていった。
 隣の部屋は静かになり、それから私がそのアパートに住んでいた二年間、静かなままだった。
 またあのスリッパの音が聞こえてこないだろうかと、一瞬耳を澄ましたが、もちろん聞こえてくるわけがなかった。
 あのサザエさんみたいな女の人はもう自分の人生にいないんだ。
 そう気づいて、悲しくなった。
 一度家賃を払いに行ったら、ヨックモックのお菓子をくれたのを覚えている。ヨーグルトの味がする、びっくりするくらいおいしいお菓子で、一人でぺろっと一箱食べてしまった。
 起き上がり、ガラステーブルに向かうとスマートフォンをつかむ。
 2:33
 その数字を見たら、怒りが込み上げ、気づけば、壁にずかずかと歩み寄り、力まかせに叩いていた。後ろめたい気持ちがあったせいか、手のひらではなく、手の甲で。
 瞬間、激痛が走った。
 これだけ音を通すのなら薄いのかと思いきや、思いのほか壁は硬かった。痛くて、楽しんでいるだけの若い人たちに苛立っている自分が情けなくて、ますます怒りが込み上げた。
 そんな私の状況など知るよしもなく、壁の向こうでは尚も笑い声やドンドンという騒々しい音が続いている。
 乃蒼が起きたらどうするんだ。
 そう思いながら、それが言い訳だとわかっていた。
 乃蒼は関係なく、私が壁の向こうに怒りをぶつけたかった。
 手のひらで壁を叩いた。
 一回、二回。手のひらだと、そんなに痛くなかった。三回。音が止んだ。その後はもう、静かだった。ベッドに戻った。情けない気持ちのまま。

 

  • <
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • >
×

会員限定の機能です。
詳細はこちら

印刷
X
Facebook
ランキング
  • デイリー
  • ウイークリー
  • 1演歌歌手・市川由紀乃「更年期かと思ったら〈卵巣がん〉だった。9ヵ月の闘病を経て復帰。若くして逝った兄の手紙を今も支えに」
    演歌歌手・市川由紀乃「更年期かと思ったら〈卵巣がん〉だった。9ヵ月の闘病を経て復帰。若くして逝った兄の手紙を今も支えに」
  • 2【なぜ義母まで…?】「食事を作るのは嫁の役割」。夫との口論に、義母が加勢してきて…【第2話まんが】
    【なぜ義母まで…?】「食事を作るのは嫁の役割」。夫との口論に、義母が加勢してきて…【第2話まんが】
  • 3【定年夫にモヤモヤ!】家事を手伝わないどころか「メシまだかよ」。今までは当たり前だと思っていたけど…【第1話まんが】
    【定年夫にモヤモヤ!】家事を手伝わないどころか「メシまだかよ」。今までは当たり前だと思っていたけど…【第1話まんが】
  • 4【作り置きすら拒否!?】夫の態度に心がすり減っていく。これ以上は限界かも…【第3話まんが】
    【作り置きすら拒否!?】夫の態度に心がすり減っていく。これ以上は限界かも…【第3話まんが】
  • 596歳認知症の父は、老人ホームに入居してから頭がしっかりしてきた。焼き芋の次はコーラブーム到来。1日に5本も…【2026年編集部セレクション】
    96歳認知症の父は、老人ホームに入居してから頭がしっかりしてきた。焼き芋の次はコーラブーム到来。1日に5本も…【2026年編集部セレクション】
  • 6明日の『風、薫る』あらすじ。りんと直美は今井たちに呼び出される<ネタバレあり>
    明日の『風、薫る』あらすじ。りんと直美は今井たちに呼び出される<ネタバレあり>
  • 7浅井・朝倉を滅亡へと追いやった信長。正月の宴で「肴」にしたのは、漆で固め彩色された敵将3人の…。敬意か、憎しみか…濱田浩一郎が『豊臣兄弟!』を解説
    浅井・朝倉を滅亡へと追いやった信長。正月の宴で「肴」にしたのは、漆で固め彩色された敵将3人の…。敬意か、憎しみか…濱田浩一郎が『豊臣兄弟!』を解説
  • 8『風、薫る』帝都医大病院の看病婦、フユ役は猫背椿。大河『どうする家康』にも出演<キャスト紹介>
    『風、薫る』帝都医大病院の看病婦、フユ役は猫背椿。大河『どうする家康』にも出演<キャスト紹介>
  • 9約1600体の遺体と対面した元検視官が語る検視のリアル。「トイレ付近で便まみれで亡くなっていても恥ずかしいことではない。むしろ問題なのは、発見した家族が…」
    約1600体の遺体と対面した元検視官が語る検視のリアル。「トイレ付近で便まみれで亡くなっていても恥ずかしいことではない。むしろ問題なのは、発見した家族が…」
  • 10「体液が床にひろがっていて、遺体に異常な数の蠅が…」引き取り手のない<無縁遺体>は全国で10万体以上…すぐそこにある孤独死の恐怖
    「体液が床にひろがっていて、遺体に異常な数の蠅が…」引き取り手のない<無縁遺体>は全国で10万体以上…すぐそこにある孤独死の恐怖
  • 1築50年超の団地でひとり暮らし・本田葉子「夫と義母を見送り、子どもは独立。家族のかたちが変わる中、3度の引っ越しで残ったものは」
    築50年超の団地でひとり暮らし・本田葉子「夫と義母を見送り、子どもは独立。家族のかたちが変わる中、3度の引っ越しで残ったものは」
  • 2『風、薫る』次週予告。ついに病院実習。颯爽と歩く外科教授を演じるのは<あの人>。りんは「下女風情が」と罵られる
    『風、薫る』次週予告。ついに病院実習。颯爽と歩く外科教授を演じるのは<あの人>。りんは「下女風情が」と罵られる
  • 3築50年超の団地でひとり暮らし、本田葉子「家族のかたちが変わり、3度の引っ越し。暮らしをコンパクトにしていく中、残す基準は思い出の深さ」
    築50年超の団地でひとり暮らし、本田葉子「家族のかたちが変わり、3度の引っ越し。暮らしをコンパクトにしていく中、残す基準は思い出の深さ」
  • 481歳現役医師の健康習慣「朝晩の入浴と白湯で血行促進、食事は3食欠かさずに。激烈な更年期障害を乗り越えて」【2026編集部セレクション】
    81歳現役医師の健康習慣「朝晩の入浴と白湯で血行促進、食事は3食欠かさずに。激烈な更年期障害を乗り越えて」【2026編集部セレクション】
  • 5【なぜ義母まで…?】「食事を作るのは嫁の役割」。夫との口論に、義母が加勢してきて…【第2話まんが】
    【なぜ義母まで…?】「食事を作るのは嫁の役割」。夫との口論に、義母が加勢してきて…【第2話まんが】
  • 6浅井・朝倉を滅亡へと追いやった信長。正月の宴で「肴」にしたのは、漆で固め彩色された敵将3人の…。敬意か、憎しみか…濱田浩一郎が『豊臣兄弟!』を解説
    浅井・朝倉を滅亡へと追いやった信長。正月の宴で「肴」にしたのは、漆で固め彩色された敵将3人の…。敬意か、憎しみか…濱田浩一郎が『豊臣兄弟!』を解説
  • 7演歌歌手・市川由紀乃「更年期かと思ったら〈卵巣がん〉だった。9ヵ月の闘病を経て復帰。若くして逝った兄の手紙を今も支えに」
    演歌歌手・市川由紀乃「更年期かと思ったら〈卵巣がん〉だった。9ヵ月の闘病を経て復帰。若くして逝った兄の手紙を今も支えに」
  • 8『風、薫る』看護婦養成所の英語教師・松井エイ役は玄理。「世の中に静かに挑んでいく姿に感銘」<キャスト紹介>
    『風、薫る』看護婦養成所の英語教師・松井エイ役は玄理。「世の中に静かに挑んでいく姿に感銘」<キャスト紹介>
  • 9川中美幸「カーテンを洗おうと転んで腰を骨折。骨密度120%が自慢だったのに…人は小さいケガを繰り返しながら老いていく」【2026編集部セレクション】
    川中美幸「カーテンを洗おうと転んで腰を骨折。骨密度120%が自慢だったのに…人は小さいケガを繰り返しながら老いていく」【2026編集部セレクション】
  • 1096歳認知症の父は、老人ホームに入居してから頭がしっかりしてきた。焼き芋の次はコーラブーム到来。1日に5本も…【2026年編集部セレクション】
    96歳認知症の父は、老人ホームに入居してから頭がしっかりしてきた。焼き芋の次はコーラブーム到来。1日に5本も…【2026年編集部セレクション】
もっと見る
MOVIE
ー 婦人公論.jp 公式チャンネル ー

編集部おすすめ
オーバーザサン
最新号 好評発売中!
婦人公論最新号表紙
する側も、される側も自分を大切にする介護
最新号 次号予告 バックナンバー
発言小町注目トピ
  • 息子が浮気。嫁と孫が来てくれなくなりました
  • 彼氏と結婚して仕事を辞めたい
  • エレベーターで「先に乗ってください」と言われたら
中央公論新社の本
三千円の使いかた
三千円の使いかた
原田ひ香 著
詳しくみる

インフォメーション

  • 耳にすっぽり!オーティコン補聴器、新しいスタイルで All in Ear の「オーティコン ジール」を発売
    耳にすっぽり!オーティコン補聴器、新しいスタイルで All in Ear の「オーティコン ジール」を発売
  • 脳の健康習慣をサポートするオープンイヤー型イヤホン「kikippa イヤホン HERALBONY モデル」発売
    脳の健康習慣をサポートするオープンイヤー型イヤホン「kikippa イヤホン HERALBONY モデル」発売
  • 【編集部より】広告ページについてのお詫びと訂正
    【編集部より】広告ページについてのお詫びと訂正
  • あなたのペット自慢を教えてください!
    あなたのペット自慢を教えてください!
  • 【編集部より】公式アドレスの不正利用について
    【編集部より】公式アドレスの不正利用について
インフォメーション一覧
婦人公論
  • 婦人公論とは
  • サイトポリシー/データの収集と利用について
  • 「ff倶楽部」会員規約
  • 「ff倶楽部」よくあるご質問
  • お問い合わせ
  • 広告掲載
婦人公論

CHUOKORON-SHINSHA,INC.All right reserved

ページのトップへ