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2021年04月13日
教養 寄稿

松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』より一話を特別配信!

松田青子 作家
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子育て 作家 推し本 松田青子

 

 再びもたもたしながら、部屋に入った。
 乃蒼の靴を脱がし、帽子を脱がし、ジャンパーを脱がし、フリースのベストを脱がし、靴下を脱ぎたがったので、靴下を脱がした。乃蒼と私は、一日に何回も同じことをしている。そして手を洗う。
 乃蒼にごはんを食べさせ、お風呂に入れ、ミルクを飲ませ、ベッドの上で絵本を読んだ。ペンギンの親子が一緒にするのが好きなことをいくつも挙げていく絵本だ。
 読み終わると、もう一度と催促され、全部で五回読んだ。まだだめ、と、もういい、が唐突に来る。
 電車の絵本も読んだ。電車の写真が並んでいる簡単な図鑑みたいなボードブックは、乃蒼のお気に入りだ。ページに書かれている通りに、6000系、2100系などと読み上げていく。もうこれまでに百回以上は読んでいるはずなのに、どうしても覚えることができない。電車に名前があるなんて考えたこともなかった。
 知らない場所にいることがやはり影響しているのか、乃蒼は今日も二十一時には寝た。普段なら、日によっては、二十三時や日をまたいでしまう時もあるのに。
 ソファーにあぐらをかき、カップラーメンを食べた。
 乃蒼は家から持ってきたぬいぐるみや絵本に囲まれて眠っている。
 シーツの上に敷いた、家から持ってきた柔らかい緑色のブランケットはもみの木らしき木の柄で、偶然ホテルの部屋の壁紙も林の柄だったので、なんだか調和していた。白い壁に薄い灰色で描かれた木々は、細くて、枝にも葉っぱが一つもなくて、寒々しそうだった。
 林の上には、ホテルの部屋によくあるような額入りの絵のかわりに、大きな紫色の花が描かれた、軽い銅製の丸いプレートが二つ飾られていて、昨日は乃蒼が手を伸ばして何度か触ろうとしたので、落ちてきたら危険だと思い、取れるだろうかと裏側を確認してみたが、さすがにこれを取り外すのは気が引け、そのままだ。
 そこにあることに慣れたのか、乃蒼は、今日は一度も触ろうとしなかった。乃蒼が生まれてから、私はあらゆる物事が危険かどうかばかり考えている。乃蒼を基点にすると、恐ろしいことに、実際、あらゆる物事が危険なのだ。そして、実は、自分にとってもそうなのだと気づかされてしまう。乃蒼といると、人間の弱さを忘れることができない。
 隣が騒がしくなる。
 残念ながら、今夜も昨日と同じ宿泊客なのは聞こえてくる音の質から明らかだった。
 ほら、またうまくいかない。
 そう誰かに言われているようで、うまくいかないほうにまた一点足されたようで、その積み重ねで本当にうまくいかなくなるような気がして、部屋の隅っこで、ざらっとした素材のソファーの上で、麺をすすりながら、じんわりと暗い気持ちでいた。辛い味にすればよかった。刺激がほしかった。
 ガラステーブルの上で、LINEの未読数は相変わらず膨れ上がり続けていた。同様に着信も止まらなかったが、とっくにミュートにしていた。
 これには驚かなかった。そうするだろうと思っていた通りだった。
 乃蒼が触らないように、キッチンスペースの、シンクの下の棚の中に隠しておいた四十リットルのゴミ袋に、空になったカップラーメンの容器を捨て、戻った。
 ベッドに横になる。
 こうしていると、森の中の、このベッドの上だけが二人の居場所のように思えてくる。
 乃蒼のほうに体を向け、何かやらないといけないことがあったはずだと思いながらも、体が求めるままに目を閉じた。
 笑い声で目が覚めた。
 壁にがんがんと、おそらくベッドのヘッドボードが当たる音もする。
 はしゃいでベッドの上でぼんぼんと跳ねている子がいるようだ。さすがに十代ではないだろうから、子、と呼ぶのはおかしい気もしたが、物音から想像すると、脳裏に浮かぶのは幼さを残した高校生の男の子たちだった。正解は、大学生くらいだろう。クシャミ一つでさえ元気で、うるさい。
 突如として、学生の頃下宿していた奥に細長い、二階建てのアパートを思い出した。三月の終わり、新学期を迎える数日前、引っ越しの片づけも済み、何をしていたかは覚えていないが私が部屋で一人過ごしていると、隣の部屋で宴会がはじまった。私と同じように引っ越してきた男子学生が友人たちを呼んだらしかった。
 宴会は遅くまで続き、この調子の集まりを頻繁に開かれると困るなと私が感じはじめた頃、廊下をスリッパのような履き物で、シャッ、シャッと歩く音が近づいてきた後、
「○○さん、うるさいからそろそろやめような。ほかの部屋の人たちに迷惑だから」
 と大きな声がした。
 一階の一番奥の部屋に住んでいる大家の女の人の声だった。当時五十代くらいの、サザエさんかな、と思うようなパーマをかけ、エプロンをしている人だった。そして、確かにいつもスリッパみたいなつっかけを履いていた。
 それだけ言うと、彼女はまたスリッパの音を響かせ、遠ざかっていった。
 隣の部屋は静かになり、それから私がそのアパートに住んでいた二年間、静かなままだった。
 またあのスリッパの音が聞こえてこないだろうかと、一瞬耳を澄ましたが、もちろん聞こえてくるわけがなかった。
 あのサザエさんみたいな女の人はもう自分の人生にいないんだ。
 そう気づいて、悲しくなった。
 一度家賃を払いに行ったら、ヨックモックのお菓子をくれたのを覚えている。ヨーグルトの味がする、びっくりするくらいおいしいお菓子で、一人でぺろっと一箱食べてしまった。
 起き上がり、ガラステーブルに向かうとスマートフォンをつかむ。
 2:33
 その数字を見たら、怒りが込み上げ、気づけば、壁にずかずかと歩み寄り、力まかせに叩いていた。後ろめたい気持ちがあったせいか、手のひらではなく、手の甲で。
 瞬間、激痛が走った。
 これだけ音を通すのなら薄いのかと思いきや、思いのほか壁は硬かった。痛くて、楽しんでいるだけの若い人たちに苛立っている自分が情けなくて、ますます怒りが込み上げた。
 そんな私の状況など知るよしもなく、壁の向こうでは尚も笑い声やドンドンという騒々しい音が続いている。
 乃蒼が起きたらどうするんだ。
 そう思いながら、それが言い訳だとわかっていた。
 乃蒼は関係なく、私が壁の向こうに怒りをぶつけたかった。
 手のひらで壁を叩いた。
 一回、二回。手のひらだと、そんなに痛くなかった。三回。音が止んだ。その後はもう、静かだった。ベッドに戻った。情けない気持ちのまま。

 

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