帽子を落としたことに気づいたのは、部屋にたどり着いてからだった。
まず私が靴を脱いで上がった後、半分ほどまだ廊下に出ているベビーカーを引っ張って中に完全に入れ、扉を閉め、鍵をかける。そして、ベルトを外して乃蒼を抱き上げようとした瞬間、どえっ、とよくわからない音が自分の口から出た。
帽子をかぶっていない乃蒼がいつもの真剣な表情でこっちを見ていた。
ベビーカーの下のかごを覗き込むが、今日は買い物をしなかったので、ズタズタの紅葉が一枚と、どこかのタイミングで飲ませたりんごジュースの空きパックが転がっているだけだった。念のため自分のダウンジャンパーのポケットにも手を突っ込むが、あるはずがない。
乃蒼、ごめん。
そう早口で言うと、鍵を開け、ドアを開け、ベビーカーを半分ほど廊下に出し、靴を履き、廊下に出た。
廊下に落ちていないだろうかと期待したが、落ちていなかった。
ホテルの外に出て、路地の左右を見回したが、落ちていなかった。
ベビーカーを押してついさっき歩いてきた道を逆にたどっていく。
あのはっきりとした黄色は落ちていたら、風景に溶け込まずにすぐに居場所を知らせてくれるはずなのに、どこにも見当たらなかった。
乃蒼の黄色い帽子は無印良品で買った。五百円だった。
ある日、なんとなく店に入ったら、子ども服のコーナーでセール品がたった一つだけ売れ残っていた。つばの広い、芥子色に近い黄色い帽子で、素材はナイロンだけど、くまのパディントンがかぶっている帽子みたいだった。
乃蒼が気に入る帽子を見つけるのは難しかった。
これまでにいくつも帽子を買っていた。ネットで見つけたくじら柄の水色の帽子も、子ども服売り場で手に入れたオレンジ色のチェックの帽子も、これまたネットで注文したリバティみたいな花柄の帽子も、乃蒼は気に入らず、かぶってくれなかった。かぶってもすぐに脱いでしまう。どれも同じようなかたちで、同じような素材なのに、何が駄目なのか皆目見当がつかなかった。
だから、黄色い帽子にも期待していなかった。五百円ならかぶってくれなくてもいいか、ぐらいに思い、買った。
でも、その黄色い帽子を乃蒼はなぜか妙に気に入り、外に出る時はすすんでかぶるようになった。
帽子をかぶれば外に出られる、と間違って覚えてしまい、ある日、おむつだけつけた状態で帽子をかぶり、ご満悦の表情で玄関のドアを開けようとしていたこともある。あまりにもかわいくて、スマートフォンで写真を撮りまくり、後で見たら三十枚以上同じような写真がずらっとアルバムに並んでいたが、見たら見たで、微妙にどれも違う表情に見え、結局一枚も消せなかった。
帽子は見つからなかった。石畳の通りにまで戻ってみたのに。
乃蒼はもう一度散歩に行けたのがうれしかったらしく、ご機嫌だったが、ベッドの上に乃蒼を着地させ、床に座りこんだ私は、ここ数年あった出来事の中で、帽子をなくしたことが一番ショックなくらい、ショックを受けていた。
また乃蒼がかぶってくれる帽子を探さなくてはいけないのが面倒なんじゃなくて、そんなことではなくて、あの帽子はもう乃蒼の一部になっていたのだ。無印の帽子でも、五百円の帽子でもなくなって、乃蒼のお気に入りの帽子だった。それは特別なことだった。
そう考えると、身を切られるようにしんどかった。
帽子なんてこの世界にいくらでもあるはずなのに、そうではないのだ。自分でも驚くくらい、私はダメージを受けていた。あの帽子をかぶった乃蒼をもう見ることができないなんて。
いつものルーティーンを終え、乃蒼が眠りについた後、未練がましくオークションサイトを巡回してみたが、季節外れのセール品だったあの帽子は、もう手に入れられるものではなくなっていた。手癖で写真フォルダーを開くと、黄色い帽子をかぶった乃蒼の写真がすぐに目に入り、ますます胸が締めつけられた。
私のスマートフォンの中で増殖し続けるLINEと着信の数が、ダメージを受けた私の心を侵食しはじめた。一度も開いてはいないが、トーク一覧からふと見えた短いメッセージは、私への懇願と非難から、罵倒の言葉に変化していた。目新しくもない、何度も私に言った言葉だ。
隣はチェックアウトしたらしく、今日は誰もいなかった。
目が覚めると、満面に笑みを浮かべた乃蒼の顔が、私の顔から五ミリほどの距離に迫っていた。かわいいが、こわい。
気力が湧かず、散歩に出かけるのをやめて、部屋の中で午前中を過ごした。朝はバナナヨーグルトとパン。私もパン。
外に行きたい乃蒼は、ジャンパーを指さして、アッ、アッ、と訴えていたが、困った時に出そうと隠していた、サランラップやストローなど、こまごまとしたものを手に入れた百円ショップで一緒に買った、プラスチックのおままごとセットを出してやると、目をまん丸にして受け取った。少し力を入れるとすぐにへこんでしまいそうな果物や野菜は真ん中で二つに切れるようにマジックテープがついていて、おもちゃの包丁とまないたもあった。
ベッドの上で乃蒼が集中している間に、レンジでサトウのごはんを温め、お湯を沸かしてフリーズドライの味噌汁を溶かし、納豆と焼き鮭をガラステーブルに運ぶ。
部屋に入ったところで、乃蒼が立ち上がってベッドのヘッドボードに寄りかかり、壁との隙間にプラスチックのりんごの半分を落としたのが見えた。
少し目を離しただけでこれだ。驚きはしなかった。子どもの余計なことを思いつく力には果てしがない。
乃蒼は満足そうな表情でベッドの真ん中あたりに戻ってくると、今度はぶどうをつかんだ。同じ動作を繰り返すことはわかっていたが、手になみなみと注いだ味噌汁があったので、止められなかった。ぶどうも壁の隙間に消えた。
こうなるともう何個でも同じことだ。納豆を混ぜながら静観していると、その後、いちごとみかんも奈落に落ちていった。最終的には、まないたも消えた。
何かはわからないが、何かをやり切ったらしくおもちゃの包丁を握りしめて満足そうな顔をしている乃蒼に昼ごはんを食べさせた。乃蒼はよく食べる。
午後、ベッドの上で絵本を読み、電車の動画を見せた。
電車がいっぺんに何車両も行き交うのを見てフゥーッ、フゥーッと興奮する乃蒼に合わせて、こっちもフゥーッ、フゥーッと真似をすると、乃蒼もまたその真似をして、フゥーッ、フゥーッと繰り返し、最高に盛り上がっている二人みたいになる。いつもこの、フゥーッ、フゥーッの輪唱をするたびに、少し明るい気持ちになる。
乃蒼は電車の動画を見ているうちにまぶたが下がりはじめ、そのままいい具合に寝た。乃蒼の周りに散っているおもちゃを片づけてから私も寝た。
起きたら夕方だった。乃蒼はいつの間にか私の脇の下あたりにくっついて寝ていた。
起こさないようにそっと離れ、起き上がる。乃蒼は私の二十分後にぱっと目を開け、にっこり笑みを浮かべた。目覚めのいい時と悪い時の差の大きさ。
ソファに座らせ、水分補給にりんごジュースを飲ませる。
その隙に、面倒でたまらず、本当はこのまま置き去りにしていきたかったが、ベッドを動かし、果物のおもちゃを回収することにした。
やってみると、家のすのこ式のベッドとは違い、ここの木製のベッドは頑丈で重く、端をひっぱりながら、勘弁してくれよとくじけそうになった。
絨毯のせいで足が滑り、力を入れにくい。首の筋がおかしい。乃蒼は不思議そうにこっちを見ている。あんたのせいだよ。
のけぞるように必死にひっぱり続けていると、なんとか大人一人が入れるくらいの隙間ができた。ホッとした拍子に、ぺたんと座り込んでしまう。
いつの間にかソファから後ろ向きにしがみつくように降りた乃蒼は、私がつくり出したばかりのベッドの隙間に入っていく。
止めようとしたが、足に力が入らない。
出てきた時、乃蒼は帽子をかぶっていた。