疲れたので、一度部屋に戻った。
もう昼過ぎだ。
子どもといると、時間がどこかに消える。
乃蒼の靴を脱がし、帽子を脱がし、ジャンパーを脱がし、フリースのベストを脱がし、靴下を脱ぎたがったので、靴下を脱がした。背が届かないので、抱き上げて、洗面所で手を洗わせる。
床に下ろしてから手を拭いてやり、よしっと言うと、乃蒼は公園と同じように、部屋の奥へ駆け出す。
その後ろ姿を見ながら、私もようやく自分のダウンを脱ぐ。
二人分のナイロン素材のジャンパーをハンガーにかけると、あまりに大きさが違うことに、改めて驚く。私は驚いてばかりだ。
おむつを替え、着替えさせ、納豆ごはんとレトルトの味噌汁を食べさせると、ベッドの上でしばらくぐじゃぐじゃと遊んだ後、乃蒼は寝た。昼寝。
照明を暗くし、入り口側の部屋に行くと、食器を洗い、洗濯機を回す。一日に何度も着替えるので、洗濯物はすぐに溜まる。家から離れ、洗濯機があることが、こんなにも勇気が湧くことだとは思わなかった。
奥に戻ると、お腹がすいていることに気づき、朝買った自分用のパンをソファーで食べる。明太ポテトパンと焼きそばパン。
ガラステーブルの端に置いていたスマートフォンが何度も光る。
明太ポテトパンにかぶりつきながらちらっと見ると、ラインの未読の表示が32になっていた。次の瞬間、33になり、34になり、35になった。
36を見る前に、指をなめながら、もう片方の手でスマートフォンを裏返した。スマホケースのお団子頭のミイが私をじっと見ていた。
数時間後、数時間前を逆回転させたように、乃蒼に靴下をはかせ、フリースのベストを着せ、ジャンパーを着せ、帽子をかぶせた。
靴下をはかせられた瞬間からまた外に出られることがわかった乃蒼は協力的で、フリースのベストとジャンパーにぐいぐいと腕を通した。
上がり口で幅を利かせているベビーカーに乃蒼を乗せ、ベルトをする。
下りる場所がないので、身を乗り出すようにして扉を開けると、ベビーカーを押し出して隙間をつくる。扉を片手で押さえながら、もたもたと廊下に出る。
壁の向こうからは物音一つしない。
結局、彼らは昨夜、三時くらいまで騒いでいた。修学旅行じゃないんだからと呆れながらも、若い頃の旅先での謎の高揚感は昔の自分にも覚えがあり、しかしいくらなんでもうるさいので、今日はチェックアウトしていてほしかった。
ホテルは商店街から横に入った住宅街の中にあった。増加する観光客に充分な部屋を確保するために空き家になっていた町屋が外観を残したままホテルに次々と姿を変え、これもすでにチェーン化したそれらのホテルの一つだった。ウイルスの流行により、街から観光客が消え、ホテルは安くなった。
散歩の最中に見つけていた、大通りに面したスーパーに入った。
大通りにあるというのに、暗いスーパーだった。照明のせいではなく(照明はむしろ明るすぎるほどだった)、空気が淀み、誰もが暗い顔をしていた。店員も客も。そしてそれが品揃えに影響していた。いや、品揃えのせいで、暗い表情になっているのか。それとも、スーパーで買い物をするだけで身の危険を感じなければならないせいか。
お弁当もお惣菜も野菜もスナック菓子も、何もかもにその雰囲気がこびりつき、こんなに買いたいと思うものがないスーパーもめずらしかったが、ベビーカーを押しながら、乃蒼が食べられるものをカゴに集めていった。
好物の焼き鮭と、乃蒼はあまり肉が好きじゃないので肉は残すはずだが、じゃがいもとにんじんが食べられる肉じゃがを陰気な惣菜コーナーからかっさらい、店内を回った。
納豆、豆腐、サトウのごはん、フリーズドライの味噌汁、バナナ、ヨーグルト、水。
部屋で簡単な料理はできるが、乃蒼から目を離すことになるので、火を使わないで済むなら、そのほうがよかった。
できるだけ早く店から出るため、目に入ったものを瞬時に判断しカゴに放り込んでいると、使える部品を集めているような気分になる。子どもの頃テレビで放映していた映画のような、終末世界でマスクをし、荒廃した街からまだ役に立つものを見つけ出す、生き残った人々みたいだ。
最後に、私のカップラーメンをいくつか、カゴに集めた部品の上にのせた。
会計を済ませ、店の外に出てから、買い物袋をベビーカーの下に押し込んだ。
乃蒼は買ってやった、アンパンマンのイラストがついた小さなおせんべいが四袋連なっているものをぎゅっとつかんでいる。
アンパンマンのアニメをまだ見たことがない乃蒼にとって、このキャラクターはどんな風に見えているのだろうと時々思う。見る前から、子どもの世界には、アンパンマンが溢れている。
このまますぐ帰ると乃蒼が承知しないだろうから、すでに暗くなってきたけれど、大通りから小道に入り、しばらくぶらぶらと歩いていく。
小川の流れる通りに突き当たり、その穏やかな水の流れに沿って進んでみる。柳の木に石の橋。街角のお地蔵さんの多さ。
歩いているうちに大きなお寺の門が見えてきた。門の向かいはちょうど、細くて長い商店街の大通り側とは逆の入り口だったので、そろそろ帰ろうと、商店街に入る。
店のシャッターはほとんど下りていた。
ラーメン屋が開いていたが、客は一人しかいない。壁に向かって座った若い女が背中を丸め、箸を動かしている。
商店街の中にも、普通の住居のようでホテルになっている場所がいくつかあった。赤い提灯が吊るされている。
惣菜屋の奥に並んで座った老夫婦が乃蒼を見て手を振ってくれた。見ると、乃蒼が二人に向かって手を振っていて、おそらく先に手を振ったのは、乃蒼だろう。乃蒼は最近、気が向くと誰にでも手を振る。眉間に力を入れた真剣な表情で、世界中に手を振っている。